紅楼夢 35 

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部屋から出てきた店の女たちが、傍の柱にもたれていたヨンに会釈をして下がる。

閉まった扉を見つめていると、しばらくして扉が少しだけ開き、ウンスが顔だけを出す。
「お待たせ、もういいわよ」
それ以上は出てこないつもりらしい。ひと呼吸置いてから、ヨンはウンスが開けた扉を
もう少し広げて中へと入る。卓の上には、ポシャギ(風呂敷)が広がっており、その上には
先ほどウンスが身に着けていたものと同じ色のチマが畳んであった。
「メヒャンさんに、モンスと妓生の衣装をもらったのよ」
ウンスは嬉しそうにそう言うと、「座ってて」と声をかけて、作業に戻る。
ヨンは戸口に立ったままで、ウンスをじっと眺める。
ポシャギの布の両端を持って結ぶ。たったそれだけのこと。それなのに、この人の仕草や
振る舞い、立ち働いている姿に目を奪われる。取るに足りない、他の者であれば、目に
留めないようなことも、この人に限っては、己はそうもいかない。
己の視線に気づいて、問いかけるように首を傾げるその人に、取り立てて言うことがない
場合がほとんどで、そんなときは、「何も」という返事代わりに小さく首を振るのがこの頃の
常だった。
明かりに照らされたウンスの姿を、上から下までざっと目を走らせる。ウンスは、一食(約三十分)も
経たぬうちに、宿舎で過ごすいつもの格好に戻っていた。化粧気のない、見慣れた横顔に
安堵しながら、己を誘った気配がどこにも残っていないことに惜しい気もあった。
「どうかした?」
「・・・何も」
視線に気づいて尋ねたウンスに、ヨンはやはりそんな返事をした。

湯気の上がるクッパが運ばれてくると、二人は卓に並んで座り、それぞれ匙を口に運ぶ。
視線を感じて、ヨンが隣を見る。ウンスが手をとめてこちらをじっと見ていた。
「何だ?」
「・・・ううん。何でもないわ」
いぶかしむヨンに、ウンスは笑ってそう答える。
『ただ食べているだけなのに、この人はどうしてこんなに絵になるのかしら』
ウンスは、ただただ見惚れていた。
咀嚼するときの顎のラインがたまらない。食べ方も粗雑なようでいて、育ちの良さが滲み出ている。
宿舎で食べるときは、他の隊員たちと一緒だから、まじまじと見ることは出来ない。
ついつい顔がニマニマしてしまう。
『何だ?』
匙を止めてヨンが目で問う。
『ううん、何でもないったら』
にやけた口元を手で隠しながら、ウンスはブンブンと首を振った。
「あ、そうだ」
首を振ったことで、ウンスは思い出した。
「私、妓生になってみたかったの」
突拍子もないことを言い出したウンスに、ヨンは驚いて匙が止まる。
「しばらく男装ばっかりだったでしょ?おしゃれが出来ないのはまあ我慢するとして、だけど
貴方の態度がわりと平然としているから、私のことをあまり意識してないのかなって考えてて・・・」
一つの部屋で寝泊まりしているのに、ヨンは気まずくならないようにいろいろと配慮してくれていた。
それは嬉しかったけれど、彼の部屋で一緒に住むと決めたときに、そうなってもいいとウンスは
覚悟していたのだ。
でも、彼は一向に手を出して来ない。緊張せず、居心地良くさせてもらっている。有難く思っている
心と裏腹に、段々と自分に自信がなくなってきた。
『私って、そんなに魅力ない?』
そんなウンスの不安は、今日見事に消し飛んで行った。もごもごと語尾を濁したウンスの言葉を
じっと聞いていたヨンは、ウンスの左手を取ると包帯の部分に視線を向けた。
「これが治ったら、貴女の身体から毒が消えたら、オレは自分を抑える自信がない」
ウンスは熱い眼差しに圧倒されて、問われてもいないのに小さく頷いた。
その返事に、ヨンは喉の渇きを覚えて咳払いを一つした。

食べ終わったヨンがウンスを待っていると、戸口に人の気配がした。
「少し宜しいですか?」
「あ、はい。どうぞ」
メヒャンの声にウンスが答える。
「ウダルチの皆様は、出立のご準備が整いました」
ウンスが着替えている間にトルベたちにはクッパが出されていた。あちらは既に食べ終わって
帰り支度も出来たようだった。
「それじゃ、私たちも」
最後に汁を飲み干したウンスが立ちあがる。
「今日は有り難うございました。お礼はまた後日改めて・・・」
「次はない」
メヒャンの言葉をヨンが打ち切る。
「主、お前はこの人を騙してここに連れてきた。王が医仙と称される方を呼び出して協力を請う。
一つ間違えば、大罪に問われても申し開きはできない危ない橋だ。仮に、ホンイという娘のため
だとしても、知り合いの娘にそこまでする理由を、お前はこの方に打ち明けていない。隠し事の
ある者に、この方を近づけるわけにはいかない」
睨みつけるヨンの瞳を、問いかけるウンスの瞳を、メヒャンは真っ直ぐに受け止める。
「全てお見通しでございますね。参りました」
メヒャンはあっさりとヨンの言い分を認める。
「此の度の件、もともとはヘジョンから相談を持ちかけられたことがきっかけでした」
「ヘジョンさん?」
「ええ。ユン・ヘジョンはヨンスの母で、私の友人です。そして、この妓楼ソガン亭の真の主です」
驚いた表情を見せたウンスに微笑むと、メヒャンは話を続ける。
「私は、彼女からこの妓楼を任されている、言わば雇われの主なのです。私とヘジョンとは、昔から
カヤグムの好敵手でした。一身上の都合で七年ほど前にケギョンを離れたのですが、数年後再び
ケギョンに戻って来た際に、彼女がここを居抜きで買って、私に切り盛りするようにと薦めてくれたの
です。当時はどうやって日々の糧を得ようかと途方に暮れておりましたので、とても助かりました。
私は、彼女に大恩があるのです」
当時を懐かしむようにメヒャンは語る。
「ヨンスとホンイ。仮初めの許婚として始まった二人ですが、互いを思慕しているのではないか。
ヘジョンはそう考えていたようです。このまま真の許婚になればと思っていた矢先に、ホンイが婚書を
返すと言い出して。何とか二人で話す場を設けたいというヘジョンに、任せて欲しいと私の方から
申し出ました。母親が口を出すと、ヨンスが反発するかもしれない。そんなことも考えてのことでした」
顔を上げたメヒャンがヨンを見つめる。
「私は八歳で嫁ぎました。夫は私よりも二つ年下でした。誰かを慕う。そんな気持ちがあるということを
知る前の出来事でした。ヨンスとホンイ。二人の為と思うあまり、行き過ぎたことを致しました。
どうか、お許し下さいませ」

それからしばらくして、ウンスたちはソガン亭をあとにした。
一行を見送ったあと、メヒャンは一人で庭に佇んでいた。
すると闇の中から滲み出すように人影が二つ、メヒャンの背後に現れた。
「行ったかい?」
中年の女の声が問う。
「ええ、先ほど」
メヒャンはそちらに目を向けず、前を向いたまま答える。
「ヨンはおめえのこと、気づいたのか?」
中年の男の声が問う。
「いいえ。でも・・・」
「でも?」
「訊かれたわ。『前にどこかで会っているな?』って」
「何て答えたんだい?」
ウンスが着替えている間、廊下ですれ違いざまにそう聞かれた。
「何年か前に、宴席で見かけたと答えたわ。あとは妓楼街でウダルチと歩く姿を見かけたと」
「それで?」
メヒャンは首を振る。
「それ以上は訊いてこなかった。あの日忠恵王を殺そうとした女が私だとはわからなかったみたい。
あのときは声も出さず、顔も隠していたから」
「そうかい」
「そうか」
中年の女が再び問う。
「満足かい?」
「ええ」
メヒャンは幸せそうに微笑んだ。


<おわり>

ヨンスの母。
ヘジョンという名前にしましたが、もしや前に他の名前で登場させてたりして!?
前に書いた内容をどんどん忘れていく~(自業自得です、はい)

ここで、一旦本編は終わります。
次回「番外編」ということでメヒャンの話が少しだけ続きます。
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