03 カンファドへ その3

ここでは、「03 カンファドへ その3」 に関する記事を紹介しています。
『もう限界』
 ウンスは、前を歩く背中に声をかける。
「ねえ。ちょっと休ませて」
 話しかけたのに、相手は振り向きもしなければ、歩みを止めることもない。
「さほど歩いておりませんが」
「そんなことないわ。すっごく歩いたもの。後ろを見てよ。ほら!街があんな遠く
に見えるじゃない。とにかく休憩させてね」
「医仙」
 たしなめる口調で呼ばれても「構うもんですか」と無視する。ちょうど道の脇に
大きくて平らな石を見つける。立ち止まって座るとすぐに靴と靴下を脱ぐ。
「あ~、足が痛い。この靴、サイズはぴったりなんだけど、足の裏が痛くて」
 しゃべりながら、足の裏を入念にチェックする。靴擦れはないが、地面から伝わ
る衝撃で、足の裏が全体的に赤くなっていた。歩いて行くことが、こんなに大変だ
とは思ってもみなかった。
 くぼんだ地面で足をくじきそうになるし、出っ張った石につまづいて転びそうに
もなった。馬や牛の大きな糞が落ちていたら、長くてヒラヒラした服の裾に引っか
けないように大回りして避けなきゃいけないし。
 普段の生活は、専らタクシーを使っていたけれど、体力には自信があった。
『だって外科医だったのよ。体力がなきゃ長時間のオペはこなせないわ。それとも
転職して身体がなまったとか?』
 軽く一時間ぐらいは歩けるつもりでいたので、30分も経っていないとわかった
ときには愕然とした。「もう歩けない」とギブアップしたら、「馬に乗れ」と言わ
れるのは目に見えていた。
『車の運転もしたことないのに、生きてる馬を自分で操縦しろって?絶対に無理!
馬から落ちたら骨折するって言ったじゃない!骨折なんてまっぴらごめんよ』
 ウンスは靴を両手に持ってブラブラさせながら振り向く。
「このコッシン(靴)はクッションがほとんどないから、でこぼこした道をずっと
歩いてると、足の裏が痛くなってくるの。だから少し休ませて。これがスニーカー
だったら、カンファドどころかチェジュド(済州島)へだって歩いて行くわ。私、
体力はけっこうあるのよ」
 歩く気はある。でも、足が痛いから休む。馬に乗る考えなんか微塵もないと伝え
る。チェ・ヨンは、道の真ん中で手を後ろ手に組んで立ったまま黙っている。ただ、
その表情は、自分を持て余していることをはっきりと映し出している。
『これじゃまるで、私がだだをこねているみたいじゃない』
 ウンスは、心の中で「ちぇっ」と舌打ちする。ふてくされた気分で、靴をブラブ
ラさせるのをやめて前に向き直ると、風防けのフードを深く被って下を向く。
『・・・おなかすいた』
 高麗時代は朝晩の二食しか食べないと知ったとき、ものすごくショックだった。
「そ、それじゃ、お昼にお腹が空いたらどうするの?」と慌ててハニソンセンに尋
ねたら、「我慢します。我慢ができなければ、虫養いで紛らせます。仕事などの合
間に、取り急ぎ口にできる餅やマンドゥを食べて、お腹の虫を静かにさせます」と
教えてくれた。典醫寺に初めて案内されたとき、トギがお餅を持ってきた理由がよ
うやくわかった。
 ちゃんとしたごはんを食べたのはいつだったかと思い出そうとしたが、数日の間
に、いろんなことが立て続けに起こったので、食事の記憶が飛んでしまっている。
もうお昼をとっくに過ぎている。
『典醫寺にいる私に会いにも来なかったから知らないでしょうけど、私はお昼ごは
んも食べるんだからね!せっかく、お昼ごはん代わりにお餅やマンドゥを用意して
もらえるよう、ハニソンセンに取り計らってもらったのに、典醫寺にいなきゃ意味
がないわ』
 大きなため息が一つ出る。サイコもくせ毛の子(テマンって名前だったかしら?)
も手ぶらみたいだから、食べるものなんて持ってない。この先しばらく、お腹をす
かせたまま歩き続けることになる。空腹を一旦自覚したあとでは、歩く気力が余計
に萎える。
 うなだれるウンスの耳に、来た道とは反対の方向から足音が聞こえてきた。そち
らに目をやると、笠を被った若い男が軽い足取りで歩いて来る。
『やっぱり笠は必需品よね』
 そう思って眺めていると、男が立ち止まってこっちを見ている。気まずくなった
ウンスが会釈しようとすると、チェ・ヨンが数歩移動した。
『何?何なの?』
 チェ・ヨンが自分のすぐ後ろに立ったので見上げたが、その表情は逆光でよく見
えない。
 男が再び歩き始めたので、ウンスは何気なく目をやる。男は荷物を背負っていた。
『旅慣れているんなら、あの荷物の中に食べるものが入ってるのかしら・・・あれ
は何の葉?』
 そう思った途端「ぐうぅ」とお腹が盛大に鳴った。

『この人をどうするか・・・』
 手を後ろ手に組み、ケギョンの方角を見つめて立っていたチェ・ヨンが視線を戻
す。そうして、悩ましい面持ちで道ばたに座っているウンスを眺める。ヨインは、
「道が悪い、靴が悪い」と文句を言って、道の脇に座り込んでしまった。今は、コ
ッシン(靴)はどころか、ポソン(靴下)まで脱いでくつろいでいる。
 後ろを見やると、テマンは「もう慣れた」と言わんばかりに、道に生えている草
を二頭の馬に食べさせながら、時々こちらをちらちらと窺っていた。
 半刻(1時間)歩くのならまだしも、一食(30分)ほどしか歩いていない。チ
ェ・ヨンは空を見上げる。陽はとうに中天を過ぎている。馬であれば、ケギョンを
遠く離れていただろう。
 いっそのこと、奴らが尾いてきていると教えてやりたい思いがもたげる。ぐずぐ
ずしていると、襲ってくるかもしれないと発破をかけたい気持ちをどうにか堪える。
 ヨインは足の裏が痛むらしく、丹念に触っては痛みが起こる場所を確かめている。
指の押し具合から見ても、随分と柔らかそうだ。
『足の裏が柔らかいのは、歩き慣れていない証拠』
 相乗りだ馬車だと言って、挙句に「歩いて行く」と口にしたのは、馬に乗れない
からだとわかっている。加えて、馬に乗るつもりなど毛ほどにも考えていないこと
は、先ほどのヨインの言葉尻からよくわかった。よくはわかったが・・・
『考えたくもないが、オレはヨインに乗馬を教える必要に迫られるのだ』
 暗澹(あんたん)たる思いになる。カンファドまで、男の足でも三日はかかる。
馬でさえ一日以上かかる道のりを、ヨインが歩いて辿り着けるとは思わない。
『あの口数の多いヨイン相手に、話を交わす気力と忍耐は保つのか・・・』
 考えあぐねるチェ・ヨンの耳に足音が一つ届く。ケギョンとは反対の方向から誰
か歩いて来る。しばらく待っていると、その足音の主が野原の先にある林を抜けて
こちらへとやってきた。
『自分より少し年若い男だ。商人だろうか』
 怪しい気配は感じないので、今まで通り過ぎた者たちと同じように見過ごす。こ
ちらを怪訝そうに窺いながらも、そのまま通り過ぎようとしていた男がつと立ち止
まる。視線の先にはヨインがいた。
 いつの間にか風防けの頭部分を脱いでいる。チェ・ヨンは苦い気持ちで一歩動く
と、見とれている男の視線を背中で遮る。肩越しにちらりと目をやると、察した男
がそそくさと去る。視線をヨインに戻すと、まだ後ろ姿をじっと見ていた。
『何が気にかかる?』
 チェ・ヨンも男の後ろ姿に目をやる。すると、男が背負っている荷の端に、萎び
た青い葉が一本垂れ下がっているのが見えた。
『蕪か・・・』
 男がカンファドの方からやって来たのでそう思った。そのとき、大きな腹の音が
聞こえた。しばらく間を置いてからそちらに目をやると、当の本人は風防けを目深
に被って、知らないフリを決め込んでいた。
 ヨインが日に三度食事を摂ることは知っている。天界では、昼にも食事を摂るの
だとチャン・ビンから耳にしていた。この道をしばらく行くと、小さな村がある。
街道を行く者を相手にマンドゥを商う店があることも知っていた。馬であれば、と
うにその店に着いているはずだった。
 チェ・ヨンは、懐から小さな皮の袋を取り出して、ウンスのそばに片膝をつく。
幾重にも畳まれた油紙を丁寧に広げていき、中に包まれていたものを素知らぬふり
をして座っているウンスの目の前にすっと差し出す。
「口に合うか、わかりませんが」
 チェ・ヨンが言葉を添える。ウンスは、風防けを外して差し出された手の中のも
のを眺める。
「ウダルチらが携えている兵食です。炊いた米を洗って塩を少し加えて干したもの
です。本来ならば器などにいれて、湯でふやかしてから食すのですが・・・」
 ウンスが何の反応も示さないので、チェ・ヨンは躊躇する。それは束の間のこと
で、ウンスは手の平をゴシゴシと服で拭くと、パッと指を広げて差し出してきた。
 チェ・ヨンは、ウンスの手に触れて指をそろえてやると、そのまま自分の手を添
えて兵食の干し飯(糒:ほしいい)をその小さな白い手の平にさらさらと注ぐ。
「噛まずにしばらく口の中で含んで、ふやかしてからお食べください」
 チェ・ヨンが言い終わる前に、ウンスは干し飯を一気に口に放り込む。その拍子
にウンスの白くなめらかな首筋が目に飛び込んで、チェ・ヨンはさっと目を逸らす。
 戻して食べなければ干し飯は相当固い。口に入れた途端に吐き出すのではないか
と思ったが、すぐにポリポリと噛む音が聞こえてくる。
『噛むなと言ったのに』
 そちらに顔を向けないまま、心の中でつぶやく。安堵で口の端が緩む。
『この方は歩き慣れていないうえに、馬にも乗れない。カンファドまで幾日かかる
と教えても、どれほどの道のりなのか、今は見当がつかないだろう。ひとまずは目
先の目的地を示そう。待っていれば、いずれ根を上げて馬に乗る気になるだろう。
それも、そう遠くない』
 チェ・ヨンはウンスに行く手を指差す。
「この先の山間の道をいくと、マンドゥを売っている茶店があります。そこで腹を
満たしましょう」
 チェ・ヨンはそう言い置いて立ち上がり、ウンスの反応を待つ。ウンスは、靴を
パンパンと叩き合わせてから素早く靴下と靴を履く。そしておもむろにチェ・ヨン
に両手を突き出す。
「何ですか?」
「「何ですか?」じゃなくて。立つから手を貸して」
 チェ・ヨンは、仕方なく片手を差し伸べる。ウンスはチェ・ヨンの手に両手でつ
かまって「よいしょ」と重い腰を上げる。ウンスが立ちあがった瞬間さあっと強い
風が吹き抜ける。
「さあ、行きましょう」
 手を離して歩き始めたウンスの手首を、今度はチェ・ヨンの手が掴む。
「少しお待ちを」
 そう言い置いて、馬の方へと歩いていく。表情は先ほどまでとは打って変わって
緊張した面持ちになる。馬の傍に立っているテマンも、鋭い目つきで辺りを警戒し
ている。
「奴らか?」
「あの家にいた、火を出す女の変な臭いがします」
 先ほど、風が吹いたあとでテマンがこちらに目配せしてきた。風上からの強い風
が、追尾する者どもの臭いを運んできた。鼻が利くテマンは、その中に火手印の臭
いを嗅ぎつけたのだ。あの女は引火剤の臭いを消すためか、きつい香(こう)を使
っていたことを思い出す。
『あの女がいる』
 チェ・ヨンは緊張を高める。この先、何を仕掛けてくるつもりなのか、敵の手の
内がまだよく見えない。けれど、奴の右腕ともいえるあの女が追尾に加わっていた
ことから、是が非でもカンファドへと行かせたいという奴の入念さがうかがえる。
「この先の山に入ったら、奴らを撒いて一旦王宮に戻れ。頼むことがある」
 テマンはコクリと小さく頷く。出来れば、奴が王に何か仕掛けていないか確かめ
させたいが、下手をすればテマンが罪に問われるのでそれも出来ない。
「あとでもう一度言うが、誰かと会っても何も話すな。用が済んだらすぐに戻れ」
 頷いたテマンの肩に手を置いてから、踵(きびす)を返して戻ろうとしたチェ・
ヨンが立ち止まる。
「医仙も・・・」
 訊きたいことが、ふと浮かんだ。
「え?」
「いや、いい」
 問うのをやめて、歩き出す。
『医仙も、何か香(こう)をつけているのか?』
 鼻が利くテマンに、ふと訊こうと思った。ヨインの傍に立つと時折香ってくる、
あの香りが何なのか気になった。だが、万に一つ、テマンに「どんな香りですか?」
と訊き返されたら、それをうまく言葉にできない自分がいた。
「参りましょう」
 待っていたウンスの元に戻り、チェ・ヨンは歩き出す。

「騙したわね、サイコ」
 ウンスはそう言いたいのをグッとこらえて歩いている。サイコが言った山間の道
は、行けども行けども木ばっかりで、マンドゥの店なんか見えやしない。
「ねえ、もしかして私をマンドゥで釣った?」
 とうとう我慢できずにそう聞いたが、前を歩く男は答えない。ただ、さっと振り
向いて片方の眉だけ少しあげると、無言のまま向き直る。
『今のって、「さあ、どうでしょうね」っていう意味?それとも「まさか、そんな
ことは」っていう意味なの?』
 再び歩き出してから、かれこれ30分は経っている。いっこうに変わらない風景
に、ウンスはとっくにうんざりしている。
 森に入ってすぐに、マントは没収されてしまった。道にまで伸びている木の枝に
マントを引っかけてしまうので、脱ぐようにと言われた。木陰は十分あるから問題
なかったので、さっさと返した。
 それからずっと会話もなく、ただただ歩いている。完全に向こうのペースで事が
運んでいることが段々悔しくなってきて、意趣返しに彼をあたふたさせてやろうと
いう気持ちがこみ上げる。
『何がいい?彼が驚いたり、慌てたりするようなこと・・・そうだ!平然とした顔
で、「私を好きだ」とみんなの前で言ったことを蒸し返して、私がそれを真に受け
ていることにすれば、きっと慌てるはずだわ。私も恋愛には疎いところがあるけど、
自分に気があるかどうかぐらいはわかる。あの人は私にそんな気持ちを持ってない。
口実だっていうことぐらいお見通しよ。それにしても、よくあんな理由を思いつい
たものね。ったく。「好きだ」と言われたら嘘でも意識するじゃない!』
 彼のマントを借りて被ったとき、
「あなたの匂いがする」
 思わずそうつぶやいていた。彼の持ち物だから当たり前のことだが、訊き返され
て言葉を濁してしまった。「恋慕」という言葉が心のどこかに残っていて、彼を意
識する自分がいた。
『向こうは口実で言っただけのこと。私のことを何とも思っていない。お前はまた
あんな風に空回りしたいわけ?』
 大学のころの苦い記憶が甦る。一つ思い出すと、思い出したくもない惨めで辛い
記憶が次々と畳みかけてくる。ウンスは、ぶんぶんと頭を振って負の記憶を頭の中
から追い出す。
『告白のことを持ち出したら、彼はきっぱりと否定するわ。私がそれを茶化して冗
談にして、それで終わりよ』
 ウンスは、頭の中で何度かシミュレーションして、それから意を決して前を行く
チェ・ヨンに声をかける。

<完>
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
こんにちは♪

> 久しぶりにお邪魔したら記事が沢山更新されてて、嬉しかったです。
ふふふ・・・いつになく頑張って更新しています。
(でもそろそろ息切れが・・・)

二次小説は書いていてすごく楽しいです。
妄想してはニヤニヤしています。
でも近頃はチェ・ヨンとウンスをマンドゥ屋の前で待たせたまま
見て見ぬフリを決め込んでいます。
いつになったら迎えにきて続きを書くのかと二人に叱られそうですね(汗)
そのうち書きます。そのうち・・・
2015/04/15(水) 18:39 | URL | おりーぶ #-[ 編集]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2015/04/15(水) 17:27 | | #[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する