年表の補足記事(1389年-1392年)

ここでは、「年表の補足記事(1389年-1392年)」 に関する記事を紹介しています。
今回で年表の補足記事は最後となります。
高麗の終わりと李氏朝鮮の幕開けまでを一気に書いていきます。

1389 陰暦12月、イ・ソンゲは昌王を廃位させ、恭譲王(高麗第34代王)を即位させる。
   同時に昌王と流刑中の父ウ王は処刑される。
1392 陰暦7月、イ・ソンゲは恭譲王を廃位し、国王として即位する。
   明に使節を送り、国号を選んでもらって「朝鮮」となる。

 『簒奪(さんだつ)』とは、
 本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること。
 あるいは継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から君主の地位を奪取する事。
 ないしそれを批判的に表現した語。
 本来その地位につくべきでない人物が武力や政治的圧力で君主の地位を譲ることを強要すると
 いう意味合いが含まれる。(ウィキペディアより)

イ・ソンゲはまだ幼い昌王の摂政となり実権を握ります。
ウ王が廃位されたときに王位を簒奪するつもりがあったのかどうかはわかりません。
彼と手を組んで回軍したもう一人の副司令官チョ・ミンスが昌王を次の王にと推したので
簒奪する機会は失われました。
昌王は幼いながらも自分でちゃんと考えて政治を行おうとしたようですが、父であるウ王を
復位させようとする動きを見せたという嫌疑をかけられます。
イ・ソンゲは機に乗じて、ウ王は恭愍王の子ではなく、彼の臣下だったシンドンの子供だ。
だからウ王は『偽王』であり、その子である昌王もまた『偽王』であるから廃位させるべきだ
と主張します。
結局昌王も流刑になり、父子はそれぞれの流刑地で処刑されました。

ウ王がシンドンの実子だという確たる証拠はないのに、イ・ソンゲがそう見なしたため
後にイ・ソンゲが編纂させた「高麗史」にはウ王も昌王も「偽王」だったのだからとシンドン
の姓で記載されています。

次に王になった恭譲王はイ・ソンゲの一派から選出されました。
恭譲王は高麗第20代王の子孫にあたる王遥(おうよう)という人物で、36歳で即位しました。

イ・ソンゲは恭譲王を傀儡(操り人形)として政治を行いながら、自らが王になろうという
動きを見せたようです。
イ・ソンゲの参謀だった儒学者チョン・モンジュは(몽주鄭夢周)は彼と対立して高麗王族の
存続を図ろうとしましたが動きを察したイ・ソンゲに暗殺されました。

これでもうイ・ソンゲに逆らうものはなくなり、1392年に恭譲王を職務怠慢で廃位させて流刑に
すると、軍事と外交の権限を掌握します。
そしてイ・ソンゲは王となり、李氏朝鮮時代を築きます。

イ・ソンゲは王位を簒奪しながらも他人の目を気にしました。
「王位を簒奪した者」として誹謗されることが耐えられなかったのかもしれません。

恭譲王が廃位されるなら次の王は誰に?ってことになるんですが、イ・ソンゲは官僚たちから
「次はあなたが王になってください」と頼まれても断ります。
王になる人には天命というものがあるじゃないですか、私には徳もないのに王になれませんよと
いうのが理由ですが・・・もちろんこれは形式上の断り文句(笑)
後に「開国功臣」となった人々はその日イ・ソンゲを王に推した人たちだったそうです。
(その場にいただけで他には何にもしてないのに功臣になった人もいたらしく、このことは彼の
 周囲の人々にとって不満のタネとなりました。
 ちなみに開国功臣になると広大な土地と多くの奴婢がもらえ、朝鮮王朝が続く限りその子孫は
 優遇されるという特典がありました)

官僚たちからどうしてもと請われるかたちで王になったイ・ソンゲ。
イ・ソンゲは即位式でも簒奪者というそしりを受けたくないために王座がある檀上には上がらず、
王座の下に立ったそうです。

イ・ソンゲは恭譲王を流刑にしたものの、生かしておきました。
簒奪者というそしりを受けたくないからか、王族が自由に暮らすことを認めようとしていました。
けれど1394年に地方の有力者が王氏一族のことを占ったという事件が起こります。
この時代、占いというものは「神の意見を求める」という意味でとらえられていて、言ってみれば
恭譲王を王にしたらどうなるのか?と神に意見を求めたということなります。
すなわち謀反になるということで・・・自分の知らないところで勝手に占われてしまった恭譲王は
この出来事が原因で処刑されてしまいます。
そして、今後謀反の火種とならないように王氏一族を皆殺しにするように命じたということです。
(高麗王の姓は王<ワン>なので、王族の子孫だという人は全て殺されたということでしょうか)

このイ・ソンゲという人物ですが・・・一つの王朝を興した人物というわりにはカリスマ性がない
ような印象を受けます。
チェ・ヨンを殺したくなかったけれど臣下たちの強い要請で処刑することにした、高麗王族に市井
で暮らすことを赦そうとしていたけれど、臣下たちから強く求められて皆殺しにした。
自分はこうしたかったんだけど臣下たちに反対されて心ならずもこうなっちゃったということが
多いんですよねぇ。
世間に悪い印象を与えるような出来事に関しては「臣下たちから強く求められたから仕方なく」と
いう態度で臨んで、自分の本意じゃないと言い訳じみているようにも受け取れるし。

チェ・ヨンが好きすぎてイ・ソンゲにはどうも辛口の評価になってしまいます。
一つの時代を興した祖なんですけどね~ 

年表の記事はこれでおしまいですが、最後にチェ・ヨンの子供たちについて追記しておきます。

ちなみに、三人とも生没年は不明です。

■息子チェ・ダム(최담崔潭)
彼は従四品の官職に就いていました。
高麗の最高行政官庁の官職についていたことから彼は文臣だったのではないでしょうか。
チェ・ダムは武官で、大護軍だったそうです。(Kさん、教えてくれてありがとう♪)
父の死後、官職から退きましたが流刑に処され、赦されて晩年は父の墓所がある土地に隠遁し、
病死したということです。

■娘チェ氏夫人(최씨부인崔氏夫人)
日本でもそうですが、歴史の表舞台に立たない人は殊に女性は記録に残らないです。
彼女もそうでした。

ただ彼女の夫については記述がありました。
サ・コンミン(사공민司空敏)は従一品の官職に就き、恭愍王から昌王に渡って高麗の官職に
就き従一品の門下侍中(ムナシジュン문하시중)にまで登りつめたが、高麗が傾くと職を辞して
故郷に帰り、節義を守ったそうです。
前にma2008さんに教えて頂いた「忠臣は二君に仕えず」ということわざを教えて頂きましたが、
彼はそれを守ったのですね。
 (忠臣は、いったん主君を決めて使えたら、他の主君に仕えることはない)

■崔氏寧妃
チェ・ヨンと妾の間に生まれた娘。
ウ王の第二妃。
彼女がウ王のもとに嫁いだのはせいぜい20代初めでしょうか。
嫁いで三か月足らずで幸せな時間は終わりました。
夫であるウ王は流刑に処され、のちに処刑されました。

処刑されるときに一緒にいた寧妃は王を助けようとして老いた役人に服を掴まれて止められます。
すると彼女は大声で「その汚い手でよくも私に触れたわね!」と役人に掴まれた服の裾をビリッと
破り、それを見ていた人々は(오싹해했다)寒気がしたそうです。
<訳が間違ってるかもですが・・・多分こんな感じのエピソードだと思います>

ウ王が処刑された後「私がこんな目に遭うのはみんなお父様のせいだ」と言って十日間何も食べずに
泣き通し、ウ王の遺体を抱いて寝て、穀物を得れば脱穀?して祭祀に使った。

イ・ソンゲはある程度の田畑(財産)を彼女に与えたということですが・・・その後の彼女に
ついては不明です。


◆チェ・ヨンの孫娘の婿
チェ・ヨンの息子チェ・ダムには娘がいました。(他にも子供がいたかは不明)
その娘の婿がメン・サソン(맹사성孟思誠1360-1438)という人物でした。
このメン・サソンは朝鮮王第4代セジョン(世宗)まで長きにわたって官僚として仕えていますが、
王のやり方を批判したり、間違っていることはちゃんと口にする人だったらしく50年の官僚生活の
うちで13年程は罷免、左遷、流刑という波乱に満ちたものになっています。
朝鮮王第3代太宗の時代には死罪の一歩手前まで行ったこともあるみたいですし。
メン・サソンは妻の祖父であるチェ・ヨンを人生の師として敬っていました。
チェ・ヨンのように清廉で実直でありたいという理想から死をも恐れずに間違っていることは
間違っていると王や重臣たちを批判したのでしょう。

科挙に主席で合格して文官として務めてから2年後にウ王がイ・ソンゲによって捕らえられ、
妻の祖父チェ・ヨンが処刑されてからはその余波で地方に左遷されたりしたそうです。
イ・ソンゲが朝鮮王朝を興した際には辞職しましたが、彼の才能を惜しんだ友人や彼の父親の
後押しもあって官職に戻りました。
(ちなみに父親も文官でしたが、高麗王朝に長く勤めたからか新しい王には仕えませんでした)
あのイ・ソンゲでさえ政敵チェ・ヨンの孫娘の夫だということをわかっていても重用したという
ことです。

セジョン王はメン・サソンが病床にある父親の看病をしたいから職を辞したいと申し出ても、
最後まで赦さず、その代わりに面倒を見ながら仕事ができるようにとバックアップしたそうです。
それほどセジョン王にとってメン・サソンは重要なブレーンだったということですね。

メン・サソンは馬ではなく、牛に乗って歩くのが好きだったそうです。
自分で楽器を作って楽しむほど音楽が好きで、身分の高い低いにかかわらず家に訪ねてきた人を
官服で門の外にまで出迎え、上座に座らせたとも書いてありました。

メン・サソンが住んでいた家はもともとはチェ・ヨンの家でしたが、孫娘と結婚したサソンに
譲られたそうです。
韓国の民家の中で最も古い家として観光名所になっていて、チェ・ヨンとメン・サソンの人柄が
偲ばれる質素な造りだそうです。
(わりとこじんまりした家ですよね)

孟氏杏檀(맹씨행단)
メン・サソンの家
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
恋藍さん

おはようございます。

教えてくださってありがとう♪
さきほど記事内容を修正してきました(*^_^*)

自分で書いた記事ですが、全く読み返していなくて(汗)
きっと多分誤情報もあるだろうなぁと思いつつ書いていました。
(なんせウィキや韓国のブログから適当に調べたものですから)

当時も読んでくださっていたなんて嬉しいです。
ありがとう、恋藍さん♪

> 李成桂、 やはり平らに見ても どうも....( >_<)
ですよね(笑)
私も、やっぱりどうも好かない人物です。
脈々と続いていた高麗王朝を一つ終わらせた人物です。
人からそしりを受けたとしても毅然とした態度でそれを
受け止めればいいのに、それはやっぱり嫌だったんでしょうね。

この人、何もかもが何か怪しい(笑)
回軍のことも「この人、なにか画策したんじゃ?」と疑いたくなるのです。
そんな風に私が見てしまうのは、単に私がチェ・ヨン贔屓だからではないはず。

コメ、ありがとうございました。

よい休日をお過ごしくださいませ。
2017/01/29(日) 06:40 | URL | 恋藍さんへ #-[ 編集]
おはようございます おりーぶさん♪

ま~た こういう過去記事に出没して申し訳ございません。

告白すると、もう 当時拝見して このひと 凄いなぁ....
と、読み逃げていたのは わたしです、何年ごしかの、ごめんなさい。

そして 息子さんですが....

高麗史 百十三 列伝二十六

そこに ヨンの記載があり、数ページに渡り 漢文で ぎっちり書かれております。
そして最後に息子さんのことも記載されています。

『~ 諫大夫尹紹宗論瑩曰 功盖一國罪滿天下世以爲名言 謚武愍 子潭大護軍』

最後の一文を転記です。 
武官で大護軍 までは確認されております。
軍籍が どの軍だかは 不明です。

(そもそも高麗末期の二軍六衛は どれが何処に編成されているかはっきりしないという研究者の論文を読みました)

わたし....
李成桂、 やはり平らに見ても どうも....( >_<)

人心を得られず お成り~と 市中を通っても戸を閉めきり 拝んでくれる人も無し。だとか、いいことは書かれておりませんね~。

鄭夢周が文官としての柱なら、ヨンは武官としての柱であり、
高麗末期の二大柱という書かれ方もされているものもあります。
これは かの国の方が書いております。
李成桂は、この二人を つまり葬っており 開国功臣には一応の持て囃しを
受けても、人心が得られず(回軍の際だけか?)結局 ヨン達を羨ましがったという そういうものを複数読みました。 事実かは不明ですが。

ではでは、 また どこかで(笑)
良い週末をお過ごしくださいね。

ごきげんよう♡



2017/01/27(金) 11:11 | URL | #0f2350-koiai 恋藍 #/PBGCKnA[ 編集]
おはようございます。

> トックン君のほうが、かなりマシだと思えます。
> まず、トックン君は、高麗王家の血筋ですし、ドラマを見る限りですが、、自身の行為を理解し、人々に自身の行為を正当化してませんでした。
> ドラマで、自身は他人の目は気にしない、と。
> すると、キチョルでさえ少し困って、王位を得るまで、少しは周りも気にしてくれ、というくらいで。
> ドラマを見る限りですが、、自身の欲望は王位にあり、民や体裁はどうでもいいと、いうことで。
> いい考えでないのは確かですが、、偽善的でない所は、今回のイ・ソンゲを見るとスッキリします。
確かに(笑)
自分を正当化していませんでした。
そんなことする必要ないって感じでしたね(笑)

> 本当に、国を憂いた忠臣であれば、高麗王家の存続を図って、資格のない自身は王位に就くことはないでしょうし。
> 単に、自身の野心の為、国を欲したとしか思えません。
> ならば、自身の野心を堂々と宣言し、高麗王家では民や国を救えないから、自分が王になり民や国に尽くすと、王者らしく言えばいいのに、、臣下の要請とか(その臣下は、自身の手の者で見え透いた茶番劇だとわかりますが(怒))、王座には座らないとか、、。
> ドラマの中で、、イ・ソンゲの所行をわかって上で、歴史の為にイ・ソンゲに優しくしていたウンスの度量に脱帽です。
> やっぱり、ウンスって、凄いですね~!!
民に自分を受け入れて欲しいあまりに自分を正当化しすぎているんでしょうかねぇ
チェ・ヨンびいきの私にとってはイ・ソンゲはどうしてもやっぱり辛口批評になっちゃいます(笑)
ウンスの場合は、将来ヨンの命を奪う人だってわかって驚愕していたからあとのことはすっぽり抜けて
いるのかも・・・あるいは目の前の少年=イ・ソンゲだとわかっても信じられない気持ちだとか。
なんだかんだいっても新しい時代(李氏朝鮮)を興した人ですから偉人であることは確かですしね。

> ヨンの娘ですが、政略結婚の上に、女癖の悪い夫の割りには、ウ王の最期に見せた、夫への愛は凄いですね~!
彼女のエピソードはあれしかなかったんですが・・・
下っ端の役人が簡単に手を触れていい存在ではないのだと怒ったのもウ王の妃としてのプライドがそうさせた
のでしょうが、そんな状況でもプライドを見せた彼女に民衆はゾッとしたの?と少し不思議です。
なので私の訳が少し間違ってるかもしれませんね。なんとなく自信がないというか腑に落ちない部分なんです。
自分がこんな境遇になったのはお父様のせいだと泣き続けていた気持ちもわかります。
嫁いであっという間に幸せは崩れ、その若さで未亡人になってしまったんですから。
エピソードを読む限りでは「若い」という印象に尽きる崔氏寧妃です。

> また、孫娘の婿のメン・サソンは立派な人物だったようで、チェ・ヨン将軍も嬉しかったでしょうね~♪
> 質素で気さくで、正義感に溢れと、、ヨンの住まいがピッタリな人物で。
> 血筋でないにしても、チェ・ヨン将軍の信念を受け継いだ家族が出来て本当に嬉しかったのではないかと。
チェ・ヨンの家だったということですが・・・名門貴族なのにこのサイズの家なのかなぁとちょっと疑問に
思ったりもしています。
小説のイメージですとかなり規模の大きい屋敷という感じを受けので・・・
なのでチェ・ヨンがユ夫人と婚姻したばかりのころに住んでいたのか、もしくは息子が嫁を娶るタイミングで
この家に移り住んで気楽に過ごしたのかな?と考えたりしています。
持ち家の一つだったという解釈のほうがいいのかもしれませんね。

> 確かに、、ヨンの現代服は想像出来ないですね~(笑)。
> そこまで、考えてませんでした(汗)。
私の場合は想像力が欠如してます。
あの服装と髪型が好きすぎて想像力が働かないのも困りものですね(笑)

> 但…ウンスと共に、未来に還って、また、やり直せたらいいなぁ~、と、思ってしまって。
> 他の2作品が、そういうラストだったもので。
> でも、確かに、ヨンのあの髪型と衣装は捨てれないですね~(笑)。
未来で二人が再会する場合はウンスはやっぱり医者で、ヨンは大統領の警護官とかでしょうか?
(ああ・・・想像力が乏しいのでこんな安直なイメージしかできません)

> 本当に、歴史の真実は凄いですね~(笑)。
ええ、本当に(笑)
調べてみてビックリすることがたくさんありましたが、面白かったです。
キャラを見る目が変わってしまったと嘆かれるかもしれませんが(汗)

> 庭にも、毎年恒例のウグイスの鳴き声で一杯で。
> このウグイス、本当に元気で(騒音に近い感じで(笑))、朝から晩まで鳴いています。
先週の祝日には雪と雨が交互に降ったりしてめっちゃ寒かったし、めっちゃ風がきつくて
ほんとにびっくりしました。
我が家の庭にもウグイスではないのですが、きれいなウグイス色のメジロちゃんたちが
庭にあるサクランボの花を目当てにやってきて朝からにぎやかに鳴いています。
桜の花のつぼみもふくらんできました。もう春なんですね~
花粉症は絶好調でくしゃみ連発、ノドが痛い状況は続いています。
これももうしばらくの辛抱・・・かな?(笑)

2014/03/25(火) 04:35 | URL | おりーぶ #-[ 編集]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2014/03/24(月) 06:52 | | #[ 編集]
おはようございます。

> 何事のはじまりでも、始まりというのは続きと違い、乱を呼びます。私も、初めての子供の時はわけもわからず今思えば、こんな怖い世の中でよく生き延びてくれたと嬉しいよりもゾクゾクする思いの方が多いように感じます。
> おそらく子供を持った女性は、普通の感性であれば、子供の少しばかりの良い所に慰められつつ毎日毎日涙目で涙心で無事に一日過ごすよう成長とともに離れた所に送り出すのではないでしょうか。自分の王朝を建てたと言っても一代目は不安のうちに毎日を過ごしたというのは想像にかたくありません。
>
> 人から使われていたなら、その苦労もありますが
> 起業したごとくあっと言う間に潰れる怖さは、いつも何もないことを祈りながら送り出す親の気持ちに近いのではないでしょうか。
> 全部分かっていたら怖くて子供も結婚も出来ないと思います。イ ソンゲは、余りにも無防備に王朝を立てたから人の言うことを無視出来なかったのだと思います。
>
言われてみればそうですね。
イ・ソンゲは武臣でしたから、いざ王になってみると政については自分で判断がつかないことが多く、
周りの意見と自分の意見が食い違っても独断で決めることは不安でできなかったのかもしれません。
若い頃ならいざ知らず、60に差し掛かるころに手にした王の座を守るには周囲の協力が不可欠だった
こともわかっていたのかもしれません。

> 私は、幼い時親から何かを選択する時は、人の選択には上品(ジョウボン)と下品(ゲボン)がある。どんなに大変でも、上品をえらぶようにと言われて育ちました。それは必ず自分に跳ね返るからと。上品を選んだ時それが破れたそして成し遂げられなかったとしても、何より大切な自分の心に対して向き合える強さが育つと。
>
> イ ソンゲは、下品を選んで王朝を建てたように思います。

上品(じょうぼん)、下品(げぼん)というのは仏教語なのですね。(さっき調べました)

イ・ソンゲが高麗史を編纂させたのちに元の書物や資料を焼き捨てたという記述があったので彼のことが
嫌いなんですよね。
元の資料が存在しなければ高麗史に書いてあることが真実なのかどうかも検証できない。
正史だと国がいう書物の中にはもしかしたら嘘や歪曲されたことが書いてあるかもしれないと後世に至る
までその内容を疑う必要が出てしまいました。

下品を選らんで王朝を興した前例があるからなのか、朝鮮王朝は王座を巡って何度も血なまぐさい争いが
あったようですね。
権力の象徴である王座を誰もが欲するのは当たり前のことですが、王になってしまえばそこに至るまでの
行為は正しかったのだと言わんばかりで・・・なんとなく殺伐としています。

> 高麗史を、調べていた時に分かった事ですが、高麗は危急の時に文官が国を率いて戦ったこともあるということで随分の武功もあったようです。
> 高麗というチェヨンや100名以上の忠臣を生んだ国に私も、まだまだ魅力を感じております。
チェ・ヨンという人物を通して高麗時代というものを知りましたが、興味は尽きないですね。
日本も武士が登場してそれまでの時代とカラーが違ったように、高麗と朝鮮では全く違う気がします。
それぞれの時代の特色があるんですね。

でも今は、チェ・ヨンの孫娘の婿であるメン・サソンを主役にしたドラマを見たいなぁと期待しています。
馬じゃなくて牛に乗るのが好きだったという史実にビックリしたので(笑)
2014/03/23(日) 06:48 | URL | おりーぶ #-[ 編集]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2014/03/22(土) 09:26 | | #[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する