年表の補足記事(1376~1380年)

ここでは、「年表の補足記事(1376~1380年)」 に関する記事を紹介しています。
今回はチェ・ヨンを中心に・・・と思っていましたが、禑(ウ)王にクローズアップした
内容になっちゃいました(笑)

年表はこんな感じです。

1376 チェ・ヨン、出征を志願して倭寇を大きく打ち破り、その功で鉄原府院君になる。
   陰暦3月、パニャが騒ぎを起こす。
1379 ウ王、正妃を迎える(当時の権力者イ・イニムの娘)
1380 陰暦1月、恭愍王の母(大妃)が亡くなる。
   9月。禑王と正妃との間に息子が誕生(後の高麗33代目昌王)


1376年に出征したチェ・ヨンは当時60歳。
その年齢になっても中央で権力にまみれたりせず、民のために北へ南へと奔走していたのでは
ないでしょうか。
民にとっては魔(外敵)を打ち破るチェ・ヨンは神の化身に見えたと思います。

そういうこともあってか、民間信仰の巫俗(ふぞく)で迎える神様の一人として
「チェ・ヨン将軍」がいらっしゃいます。
寿命長寿、安過太平(안과태평)の神様だそうです。
(安過太平は「家内安全」とか「無病息災」っていう意味でしょうか)
韓国ドラマでは現代でも巫女さんの祈祷を受けたりするシーンとかたまに見かけますよね。
実在の人が神様として祀られることがある日本ではそう珍しくないのですが、韓国ではどうなん
でしょうね?

済州島(チェジュド)にもチェ・ヨン将軍の霊廟があります。
1374年に起きたモンゴル人の乱が済州島で起きたときにヨンが鎮圧しに済州島へとやってきます。
そのときに漁民に魚を網で獲る方法を伝授し、漁民の生活は豊かになったそうです。
その感謝の気持ちから霊廟を建てたとも言われていますし、度重なる倭寇からの侵略に苦しんで
いた民らが倭寇の討伐で何度も功績をあげているチェ・ヨン将軍にあやかろうと建てたという
説もあるそうです。

その後もチェ・ヨンは倭寇の討伐にずっと出ていたようです。
中央の政治の上で、彼の影響力は大きかったのではないでしょうか。
家柄は名門の貴族だし、実力はイ・ソンゲよりも若い頃からずっと戦場に出ていて武功もあり、
民衆からの信頼も厚いし・・・。

さて、今回は恭愍王の息子で第32代の高麗王である禑(ウ)王に注目したいと思います。
(こっちのほうがエピソード満載で面白かったのでついつい取り上げてしまいました)

その前に・・・
恭愍王が殺害された後、王を殺したホン・ニュンとチェ・マンセンを討ったのがイ・イニム
(李仁任이인임)という武人でした。
次の王をどうするかという話が持ち上がったときに大妃(恭愍王の母)一派は王族からの選出を
主張しましたが、イ・イニムが唯一の子供であるウ王を王にと推し、結局ウ王が王になったので
それを足掛かりに政治の権力を握ります。
このイ・イニムは一時はシンドンの門下もいたそうで・・・権力の臭いがしそうなところには
敏感に反応したのかもしれません。
権力を握ったイ・イニムは横暴や政治腐敗の限りを尽くし、内側から高麗王朝を蝕み始めます。

話はウ王に戻ります。
彼の母親はパニャという女性でしたが、元々はシンドンの侍女でした。
恭愍王はシンドンの息子だという憶測が広がることを怖れ、ウ王が生まれたことを隠しました。
シンドンが失脚して後に自分には息子がいると公表しましたが、宮の外で生まれた子ですし
ひた隠しにされてきたことで疑惑が持ち上がります。

1376年。
ウ王が即位した翌年に騒ぎが起こります。
パニャが「自分はウ王の生母だ」と大妃(恭愍王の母で、当時はウ王の母親代わりだった?)に
訴えた(もしくは訴えようとした)記録が残っています。
パニャは捕えられて後に殺されましたが、このことは後にイ・ソンゲたち新興武力勢力にとって
ウ王を排除する都合のいい言い訳になってしまうわけです。

後に朝鮮王朝を興したイ・ソンゲが編纂を命じた「高麗史」にはウ王は恭愍王の子ではなく
シンドンの子供だったと記載してあります。
なので名前も王家の「王<ワン>」という姓ではなく、シンドンの「辛<シン>」という姓で
記載され、「辛禑<シン・ウ>」となっています。
当然ながらウ王の子供で次に王となった「昌王」も同じく「辛昌」と記載されました。

周囲から出自を疑われて育つということは足元が不安定でどこにも居場所がないような気持ち
なのではないかと思います。
宮で暮らすようになってから3年後に父である恭愍王は殺されました。
養育は恐らく恭愍王の母だった大妃がしていたのだと思われます。
大妃はどうして彼を王に推さなかったのでしょうか・・・彼を王にと推さなかったのは出自が
不明だからなのか、それとももう自分の直系が王になるのは見たくなかったからでしょうか。
彼女はどんな目でウ王を見ていたのか・・・
その祖母もウ王が15歳の時に亡くなりました。

1379年イ・イニムは娘をウ王の正妃として嫁がせ、翌年には世継ぎとなる孫(のちの昌王)が
誕生します。

若い王はイ・イニムに唆されたのか、あるいはもとからそういう気質だったのか・・・
享楽的な生活にのめり込んでいきます。

正妃の女官に手をつけ、妻の実家を訪ねたときに奴婢だった娘に手をつけ、他の男と婚姻の
決まっていた娘を無理やり奪って自分のものにし(二人)、妓生<キーセン>を妃にし(二人)、
家臣の妾を無理やり奪うなど・・・この他に祖母の姪やチェ・ヨンの娘などあわせて12人の妃が
いました。

17歳で女官に手をつけたところから始まっているので7年ほどで12人。
若いとはいえ多すぎます。
妃として迎える限りは彼女たちが住まう宮などを用意する必要があり、国庫はそのせいで
ほとんど尽きてしまったようです。
1385年12月に冊封した妃は同時に3人。妃となった女性たちが、婚姻の決まっていた娘、家臣の妾、
奴婢と身分がバラバラだったので世間はびっくりしたようです。
チェ・ヨンの娘は1388年3月に冊封されて妃になりましたが、そのときは家臣の家にお出ましに
なったときに見初めた娘と二人一緒に妃になりました。
その一か月前の1388年2月には妓生二人を妃として冊封したウ王。
そりゃ国庫がいくらあっても足りないわけで、その足りない分を税金を上げて補てんしようと
したもののそれでも足りなかったとか。

1388年。
外敵(倭寇)の侵入による衰退のうえに政治が腐敗して国の財政はひっ迫している状況に
陥るなかで明からは新たな要求が来ます。


この続きは次の記事で。

あ、ちなみに次回はチェ・ヨン将軍の最期について書いています。
読むのが辛い方は見ないでくださいね~
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コメント
この記事へのコメント
おはようございます。

> 高麗の遺構から色々みますと、感じるものがあります。コンミン王と王妃の眠る王墓は、他の王族達とは違うと前に申し上げましたが、全て陰陽などを満たしていますが、何ともユーモラスに見えました。コンミン王が、心をこめて作り上げたのでしょうが、壮大さや、威圧感というより、周りに侍る仕えのもの達の大きな石像も少し困ったような顔に見え、王が王妃を思う時に美しさとか元の姫であることによる遠慮とかではなく、もっと貴方とお話がしたいのよというような、そばにいるのにもっとそばにいたい、顔を見ているのにもっと顔をみたいというようなイメージがこんなに時間がたっているのにも関わらず感じました。
>
> 王と王妃は、礼儀上別な御殿にいたと思いますが、秘密の通路でもあり常にそばにいたのかなあなんて、妄想してしまいました。
>
> もしそのようにお互いが何時も影のように寄り添って居たとすれば、片方の不在というのはその通路を見た時にも池の水に映った自分が一人で居ることも、目の前の女人が頭をあげた時も何時も王妃の不在を思い知らされたのでは無いでしょうか。王妃は政治にも深く関与していたと書かれており、表の場所でも何時もアドヴァイスされていたとすれば、コンミン王の優れた政治力というのは誰によって作られたのかとまで考えてしまいました。チョット間違えれば、疳の虫が騒ぎだし長年の人質生活で、劣等感も強く、強引だけど繊細な王が、ユーモラスで元の姫なので堂々と肝が座り上手に王をあやす自分好みの顔を持つ姫であれば、代わりなど考えられないし、幼い時からずっと一緒で絶えず自分をきずかってくれていたのを夢のように温かいお湯から引き出されたと思ったのでは無いでしょうか。男は女性次第、女性もある程度男性からの影響があると思います。
> 特に男性は、女性次第で、どんな人生にもなると私はおもいます。女性から産まれた宿命なのではないでしょうか。

ステキなお話だったのでほぼノーカットで記載させて頂きました。
秘密の通路の話は本当にあったかもしれませんね。

政もma2008さんがおっしゃるように二人で行っていたのかも。
王は王妃と二人で国を作り上げていこうとしていたのでしょう。
一人で考えるより、二人であれこれと考え、意見を出し合って決めていたことが
多かったのかもしれません。
そういうことが容易に想像できるのはドラマのイメージだけではないように思います。
実際のお二人がそうだったからすんなりと想像できるのかもしれませんね。
王妃が亡くなった時点で王は王であって、でも王ではなくなったしまったのかもしれませんね。

二人で一つだったのですから片方が欠けてしまえばそれはもう形を留めることができなかったのでしょうね。
「あの人でなければ・・・」
と王妃は思いつめて入水しようとしました。
「あの人が(この世に)いないなら・・・」
と王の心は静かに死んだのだと思います。

2014/03/14(金) 06:06 | URL | おりーぶ #-[ 編集]
おはようございます。

> あのキチョルと同じプウォン君になるのは、ウ王の代なんですね~!?
> 本人は、戦により国や民を救うことばかり考えていて。
> だから、神となり神格化されたようで。
> ウンスもハヌルサラムですから、二人共に神格化されていて、似た者夫婦な感じかな(笑)。
あ、ほんとだ。そうですね♪
二人とも神格化されるってすごいです。
私も晩年のヨンは想像できません(汗)
ここはあくまでも実在のチェ・ヨン将軍としてとらえていきます(笑)

> チェジュ島にも、ヨンの霊廟があるとか?
> 初めて知りました!?
> 魚を網でとる方法を伝授したとか?
> 凄いですね!
ソン・ジナ女史はもしかしたらチェ・ヨンの生涯を調べていてチェジュの霊廟の話も
頭にインプットされていたので官職を退いたら漁夫になるつもりだという設定を
作り上げられたのかもしれませんね。

> イ・ソンゲも、やっぱり、出自を疑って、後にシンドンの子として、性もシンに。
イ・ソンゲは純粋に出自を疑ったわけではないんです。
彼には思惑があり、それで出自を理由にしました。
調べるうちにあまりよく知らないイ・ソンゲを好きになれなくなった私です(笑)
ウ王がいったい誰の子だったのか・・・真相は藪の中ですね。
「王として生まれる」というところに疑いはありますが、「王になる」という
ことはできたはずです。
彼はまだ若かったのでちゃんと忠告する人がいればあるいは本当の意味で王に
なれたかもしれませんね。

> 王自体が、若く、愚かなせいか、奸臣によりどんどん国も傾いたようで…。
> 国に全てを尽くしたヨンが、本当に可哀想で‥(涙)。
恭愍王のころから外敵(倭寇と紅巾賊)の襲来を幾度となく受けて国が疲弊しました。
そんな疲弊した中で己の利を貪ることだけに熱心だった人たちのせいで国は傾いて
いったようです。
元朝も日本もちょうど当時の王朝などが衰退していたり、機能していなかった時期
ですから近隣国の荒廃と運命を共にしてしまったのが高麗王朝だったのかもですね。
国が荒れると抑制の利かなくなった悪い虫(奸臣)が暴れるのはどこも同じことだと
思います。

いつかma2008さんに教えて頂いたノブレス・オブリージュという言葉が浮かびました。
 
 参照:http://madakankoku.blog25.fc2.com/blog-entry-606.html#comment918

民は身を守ってもらう代わりに労働を対価として差し出し、支配層(王や貴族)はその労働から
財を得る代わりにそこに暮らす民を命がけで守るという契約に近い関係なのだと。

チェ・ヨンという人はその約束を違えない人だったのですね。
乱世の世にあってもそれを守った人でした。

> 大妃の長生きにも、ビックリしました!
当時で80歳まで生きるのはすごいですよね~
どんな人だったのかはわかりませんが、長生きしているだけに発言力は大きかったと
思います。

> よくわからないのですが(笑)、先生から言われて塩のうがいを欠かさず、数年してます。
ふぬぬぬ・・・塩でうがいですか!?
喉が痛いときにはかえってヒリヒリしそうですが・・・一度トライしてみますね!
情報ありがとうございました。

この時期はのど飴とマスクが手放せないです。
近年はそうでもなかったのですが、今年は症状がひどくて・・・
花粉の量が多いのかもしれませんね。

次回はチェ・ヨンの最期について書いています。
妄想はネタ切れと言っていましたが、やっぱりちょっと妄想しました(笑)
いやぁ、妄想って楽しいですね♪

2014/03/14(金) 05:53 | URL | おりーぶ #-[ 編集]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2014/03/13(木) 10:38 | | #[ 編集]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2014/03/13(木) 05:45 | | #[ 編集]
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