信義_高麗末期の年表

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高麗末期の年表を作りました。
ほとんどがネットのウィキ情報で間違っている記述なども多いみたいですが・・・
信義の世界を知る際の参考にして頂ければ嬉しいです。

<注>
きっと多分誤記がたくさんあると思いますので、ゆる~い目で見て頂けると助かります。

【「信義」設定】 ⇒ ドラマ、もしくは小説「信義」の設定に於いての記述です。
【小説「信義」設定】 ⇒ 「信義」の設定に於いての記述です。 
-------------------

1206 チンギス・カンがモンゴル帝国(遊牧国家)を創設。
1231 モンゴルが高麗に侵入し始める
1232 政権を握っていたチェ・ウがカンファド(江華島)に強引に遷都する。
1258 チェ・ウがキム・ジュンに殺害される。
1269 当時の武人政権が王を廃位させ、高麗太子(のちの忠烈王)がクビライに支援を求める。
1270 カンファドからケギョンへ還都する。
1271 チンギス・カンの孫クビライ・カンがモンゴル帝国を「元」と改め、
    元王朝が興る。
1274 忠烈王(高麗王第25代、在位1年目)元寇(文永の役)
1275
1276
1277
1278 忠烈王(在位4年目)胡服辮髪令を発令
1279
1280 忠烈王(在位6年目)征東行省が置かれる
1281 忠烈王(在位7年目)元寇(弘安の役)
1282
1283
   この間は省略
1307
1308 忠宣王が瀋陽王に冊封、この後忠烈王の死去に伴い高麗王も冊封され即位(第26代)
1309
1310
1311
1312
1313 江陵大君だった忠粛王は父忠宣王から高麗王の譲位を受けて即位(第27代)。
    忠宣王は上王になり、この年に忠粛王とホン氏が婚姻。
1314
1315 忠恵王生まれる(ホン氏17歳で出産)
1316 上王だった忠宣王が甥である延安君(ヨナングン)王暠(ワンゴorワンホ)を
    瀋陽(シミャン)王にして譲位した。<瀋陽王⇒後に瀋王(シワン)に変更>
    忠粛王は元の營王(ヨンワン영왕)の娘濮國長公主を正妃として迎える。
    チェ・ヨン生まれる。
1317 
1318
1319 濮國長公主亡くなる。
1320 忠粛王がワンゴの訴えにより元に滞留させられる。(これより5年間)
1321
1322 チェ・ヨン、生まれる【「信義」設定】
1323 
1324
1325 忠粛王帰国。ワンゴに譲位しようとしたが臣下の反対にあって断念。
1326
1327
1328 チェ尚宮、甥ヨン(当時6歳)の武術の才について兄から相談を受ける。【小説「信義」設定】
     →チェ尚宮はすでに宮にいて、ムガクシだった?
1329 ヨン、父の意向で武術の鍛錬を始める(7歳)【小説「信義」設定】
1330 嫡子だった忠恵王(第28代)に譲位したが、即位した忠恵王(当時15歳)は狩りや遊戯に明け暮れる。
    恭愍王生まれる(ホン氏32歳で出産)
1331
1332 素行不良だった忠恵王が廃位され、忠粛王が復位。
    ヨン、10歳でムン・チフから運気調息を学ぶ【小説「信義」設定】
1333
1334
1335 タナシリ(愛妾だったキチョル妹をいじめていた皇后)が謀反の罪で殺される[於:元]
1336
1337 忠穆王誕生(忠恵王の嫡子)
    バヤンフトが正皇后になり、キチョル妹は次皇后(ナンバー2かな?)になる。[於:元]
1338 忠定王誕生(忠恵王の庶子:慶昌君)
    ヨン16才で家を出て、チョグォルデに入る【小説「信義」設定】
1339 忠恵王(24歳)、忠粛王(父)の死去により復位する。
1340 奇皇后が後の皇太子アユルシリダラを生む[於:元]
1341 恭愍王、元へ人質として行く
1342 誘拐されそうになった王妃を王が助ける【小説「信義」設定】
1343 秋。忠恵王がムン・チフ(ヨンの師匠)を殺害【「信義」設定】
    ヨン、ウダルチテジャンとして任命され、宮仕えの身となる【「信義」設定】
1344 1月。忠恵王、元から召喚される途中で死去(35歳)
    忠穆王(第29代)8歳で即位
1345 瀋陽王ワンゴ退位。瀋陽王は高麗王が兼職することになる。
1346 ヨン、チャン・ビンと知り合う【小説「信義」設定】
1347 王妃、自分を助けた少年が高麗の王子だと知る【小説「信義」設定】
1348 忠穆王死去(12歳)
1349 忠定王(第30代)12歳で即位
    当時江陵大君だった恭愍王が魯國大長公主と婚姻[於:元]
1350
1351 忠定王(慶昌君:キョンチャン君)14歳で廃位
    恭愍王(第31代)が高麗に帰国して即位<20歳>
    ヨン、ウンスと出会う【「信義」設定】
    慶昌君(忠定王、毒を飲んで死ぬ【「信義」設定】
    チョ・イルシン、謀反を企てた末に殺される【「信義」設定】
    キ・チョル、死亡する【「信義」設定】

1352 キョンチャン君が毒殺される。
    チョ・イルシンが謀反を企てて、ヨンたちが制圧する。
     ⇒この出来事でによりチェ・ヨンは護軍(호군ホグン)になる。
1353 奇皇后が生んだアユルシリダラが皇太子として冊立[於:元]
1354 ワンゴの孫トッタブラ?が瀋王の座に就く。
    元の山東省で紅巾賊の反乱が起き、元はコンミン王に討伐のための援軍を要請。
     ⇒チェ・ヨンは大護軍(대호군テホグン)の大将軍として二千人を率いて遠征。
      元で待機中だった高麗人二万人と合流して指揮した。
1355 遠征から戻ったヨンに王は失地回復を命じる。
     ⇒鴨緑江を越えて遼東半島まで元に奪われていた高麗の土地を取り戻す。
      この失地回復の際に活躍したのがイ・ソンゲとその父だった。
     (ドラマでウンスが戻ってきたのはこの失地を奪い返したあとのことです)
    ウンス、ヨンの元へ戻る【「信義」設定】
1356 奇皇后を後ろ盾にして権勢をふるっていたキ・チョルを王が粛清する。
1358 チェ・ヨン、倭寇を大討伐(倭寇船400隻を撃破)
    恭愍王の政治改革を主導していたイ・ジェヒョンが辞職する。
1359 紅巾賊の一次侵入。
     ⇒西京(서경ソギョン)が陥落され、チェ・ヨンが撃退。
       ※ソギョンは今のピョンヤンです。
1361 紅巾賊二次次侵入(10万人)。
     ⇒ケギョン(開京)まで侵入した紅巾賊をチェ・ヨンが撃退。
1362 紅巾賊を敗退させてケギョンを復興。
1363 内官アン・ドチ、王の身代わりとなって殺される。
1364 元に反旗を翻すコンミン王を倒してトックン君(徳興君덕흥군)を王にすげ替え
    ようとした奇皇后が一万の兵を率いて高麗に攻め入るがチェ・ヨンが討伐した。
1365 3/8 王妃が難産で亡くなる(子供は死産or死亡)
    5月、王は当時僧侶だったシンドン(辛旽)を還俗させて登用する。
     ⇒以後、政については王はシンドンに一任するようになり、シンドンと
      彼に反発する勢力の争いが始まる。
    倭寇が江華島(カンファド)などに侵略し、チェ・ヨンが討伐する。
     ⇒しかしその間にシンドンの企みで左遷される。
    7/25 禑王(ウ王)生まれる。
    バヤンフトの死後奇皇后が正皇后になる[於:元]
1368 ワンゴ死去。
    明が建国される。
1369  改革を推進していたシンドンは王に謀反を起こそうとしたという罪で流刑される。
1371 シンドン(辛旽)が処刑され、チェ・ヨンは復職する。
    恭愍王が子供(禑王)の存在を公表する。
1372 恭愍王、子弟衛(チャジェイ자제위)を設置する。
1374 7月 済州道(チェジュド)で乱が起き、チェ・ヨンが鎮圧する。
    9月 恭愍王が殺害され、禑王が11歳で高麗32代目の王に即位する。
    (トッタブラが高麗王になると宣言するものの、実現せず)
1376 チェ・ヨン、出征を志願して倭寇を大きく打ち破り、その功で鉄原府院君になる。
    陰暦3月、パニャが騒ぎを起こす。
1379 ウ王、正妃を迎える(当時の権力者イ・イニムの娘)
1380 陰暦1月、恭愍王の母(大妃)が亡くなる。
    9月。禑王と正妃との間に息子が誕生(後の高麗33代目昌王)
1388 チェ・ヨンとイ・ソンゲが手を組んでイ・イニムを流刑にする。
    2月、明から北部地域を返還するよう求められる。
    3月、チェ・ヨンの庶女(寧妃 崔氏)が禑王に嫁いで妃となる。
    4月、チェ・ヨンは総司令官となって北部地域へと遠征を開始する。
    6/末、鴨緑江(アムノッカン)を挟んで対峙していた高麗軍が副司令官イ・ソンゲの
       命令で王命に背いて開京へと兵を回軍させる。(威化島回軍イファドヘグン)
    7月初、イ・ソンゲたちが開京(ケギョン)を占領し、チェ・ヨンは王を唆した罪で
       京畿道へ流刑される。
       禑王は廃位されて流刑に処され、息子の昌王(当時8才)が王位に就く。
    陰暦12月、チェ・ヨンはケギョンに召還され、後に殺される(享年73才)
1389 陰暦12月、イ・ソンゲは昌王を廃位させ、恭譲王(高麗第34代王)を即位させる。
    同時に昌王と流刑中の父ウ王は処刑される。
1392 陰暦7月、イ・ソンゲは恭譲王を廃位し、国王として即位する。
    明に使節を送り、国号を選んでもらって「朝鮮」となる。

  補足 1351-1355年 ウンスとの出会いから再会するまで
  補足 1356-1364年 その後の高麗
  補足 1365年 王妃の死
  補足 1368-1374年 王の最期
  補足 1376-1380年 次の王の時代
  補足 1388年 チェヨン将軍の最期
  補足 1389-1392年 高麗の最後、李氏朝鮮の始まり


  
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今回で年表の補足記事は最後となります。
高麗の終わりと李氏朝鮮の幕開けまでを一気に書いていきます。

1389 陰暦12月、イ・ソンゲは昌王を廃位させ、恭譲王(高麗第34代王)を即位させる。
   同時に昌王と流刑中の父ウ王は処刑される。
1392 陰暦7月、イ・ソンゲは恭譲王を廃位し、国王として即位する。
   明に使節を送り、国号を選んでもらって「朝鮮」となる。

 『簒奪(さんだつ)』とは、
 本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること。
 あるいは継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から君主の地位を奪取する事。
 ないしそれを批判的に表現した語。
 本来その地位につくべきでない人物が武力や政治的圧力で君主の地位を譲ることを強要すると
 いう意味合いが含まれる。(ウィキペディアより)

イ・ソンゲはまだ幼い昌王の摂政となり実権を握ります。
ウ王が廃位されたときに王位を簒奪するつもりがあったのかどうかはわかりません。
彼と手を組んで回軍したもう一人の副司令官チョ・ミンスが昌王を次の王にと推したので
簒奪する機会は失われました。
昌王は幼いながらも自分でちゃんと考えて政治を行おうとしたようですが、父であるウ王を
復位させようとする動きを見せたという嫌疑をかけられます。
イ・ソンゲは機に乗じて、ウ王は恭愍王の子ではなく、彼の臣下だったシンドンの子供だ。
だからウ王は『偽王』であり、その子である昌王もまた『偽王』であるから廃位させるべきだ
と主張します。
結局昌王も流刑になり、父子はそれぞれの流刑地で処刑されました。

ウ王がシンドンの実子だという確たる証拠はないのに、イ・ソンゲがそう見なしたため
後にイ・ソンゲが編纂させた「高麗史」にはウ王も昌王も「偽王」だったのだからとシンドン
の姓で記載されています。

次に王になった恭譲王はイ・ソンゲの一派から選出されました。
恭譲王は高麗第20代王の子孫にあたる王遥(おうよう)という人物で、36歳で即位しました。

イ・ソンゲは恭譲王を傀儡(操り人形)として政治を行いながら、自らが王になろうという
動きを見せたようです。
イ・ソンゲの参謀だった儒学者チョン・モンジュは(몽주鄭夢周)は彼と対立して高麗王族の
存続を図ろうとしましたが動きを察したイ・ソンゲに暗殺されました。

これでもうイ・ソンゲに逆らうものはなくなり、1392年に恭譲王を職務怠慢で廃位させて流刑に
すると、軍事と外交の権限を掌握します。
そしてイ・ソンゲは王となり、李氏朝鮮時代を築きます。

イ・ソンゲは王位を簒奪しながらも他人の目を気にしました。
「王位を簒奪した者」として誹謗されることが耐えられなかったのかもしれません。

恭譲王が廃位されるなら次の王は誰に?ってことになるんですが、イ・ソンゲは官僚たちから
「次はあなたが王になってください」と頼まれても断ります。
王になる人には天命というものがあるじゃないですか、私には徳もないのに王になれませんよと
いうのが理由ですが・・・もちろんこれは形式上の断り文句(笑)
後に「開国功臣」となった人々はその日イ・ソンゲを王に推した人たちだったそうです。
(その場にいただけで他には何にもしてないのに功臣になった人もいたらしく、このことは彼の
 周囲の人々にとって不満のタネとなりました。
 ちなみに開国功臣になると広大な土地と多くの奴婢がもらえ、朝鮮王朝が続く限りその子孫は
 優遇されるという特典がありました)

官僚たちからどうしてもと請われるかたちで王になったイ・ソンゲ。
イ・ソンゲは即位式でも簒奪者というそしりを受けたくないために王座がある檀上には上がらず、
王座の下に立ったそうです。

イ・ソンゲは恭譲王を流刑にしたものの、生かしておきました。
簒奪者というそしりを受けたくないからか、王族が自由に暮らすことを認めようとしていました。
けれど1394年に地方の有力者が王氏一族のことを占ったという事件が起こります。
この時代、占いというものは「神の意見を求める」という意味でとらえられていて、言ってみれば
恭譲王を王にしたらどうなるのか?と神に意見を求めたということなります。
すなわち謀反になるということで・・・自分の知らないところで勝手に占われてしまった恭譲王は
この出来事が原因で処刑されてしまいます。
そして、今後謀反の火種とならないように王氏一族を皆殺しにするように命じたということです。
(高麗王の姓は王<ワン>なので、王族の子孫だという人は全て殺されたということでしょうか)

このイ・ソンゲという人物ですが・・・一つの王朝を興した人物というわりにはカリスマ性がない
ような印象を受けます。
チェ・ヨンを殺したくなかったけれど臣下たちの強い要請で処刑することにした、高麗王族に市井
で暮らすことを赦そうとしていたけれど、臣下たちから強く求められて皆殺しにした。
自分はこうしたかったんだけど臣下たちに反対されて心ならずもこうなっちゃったということが
多いんですよねぇ。
世間に悪い印象を与えるような出来事に関しては「臣下たちから強く求められたから仕方なく」と
いう態度で臨んで、自分の本意じゃないと言い訳じみているようにも受け取れるし。

チェ・ヨンが好きすぎてイ・ソンゲにはどうも辛口の評価になってしまいます。
一つの時代を興した祖なんですけどね~ 

年表の記事はこれでおしまいですが、最後にチェ・ヨンの子供たちについて追記しておきます。

ちなみに、三人とも生没年は不明です。

■息子チェ・ダム(최담崔潭)
彼は従四品の官職に就いていました。
高麗の最高行政官庁の官職についていたことから彼は文臣だったのではないでしょうか。
チェ・ダムは武官で、大護軍だったそうです。(Kさん、教えてくれてありがとう♪)
父の死後、官職から退きましたが流刑に処され、赦されて晩年は父の墓所がある土地に隠遁し、
病死したということです。

■娘チェ氏夫人(최씨부인崔氏夫人)
日本でもそうですが、歴史の表舞台に立たない人は殊に女性は記録に残らないです。
彼女もそうでした。

ただ彼女の夫については記述がありました。
サ・コンミン(사공민司空敏)は従一品の官職に就き、恭愍王から昌王に渡って高麗の官職に
就き従一品の門下侍中(ムナシジュン문하시중)にまで登りつめたが、高麗が傾くと職を辞して
故郷に帰り、節義を守ったそうです。
前にma2008さんに教えて頂いた「忠臣は二君に仕えず」ということわざを教えて頂きましたが、
彼はそれを守ったのですね。
 (忠臣は、いったん主君を決めて使えたら、他の主君に仕えることはない)

■崔氏寧妃
チェ・ヨンと妾の間に生まれた娘。
ウ王の第二妃。
彼女がウ王のもとに嫁いだのはせいぜい20代初めでしょうか。
嫁いで三か月足らずで幸せな時間は終わりました。
夫であるウ王は流刑に処され、のちに処刑されました。

処刑されるときに一緒にいた寧妃は王を助けようとして老いた役人に服を掴まれて止められます。
すると彼女は大声で「その汚い手でよくも私に触れたわね!」と役人に掴まれた服の裾をビリッと
破り、それを見ていた人々は(오싹해했다)寒気がしたそうです。
<訳が間違ってるかもですが・・・多分こんな感じのエピソードだと思います>

ウ王が処刑された後「私がこんな目に遭うのはみんなお父様のせいだ」と言って十日間何も食べずに
泣き通し、ウ王の遺体を抱いて寝て、穀物を得れば脱穀?して祭祀に使った。

イ・ソンゲはある程度の田畑(財産)を彼女に与えたということですが・・・その後の彼女に
ついては不明です。


◆チェ・ヨンの孫娘の婿
チェ・ヨンの息子チェ・ダムには娘がいました。(他にも子供がいたかは不明)
その娘の婿がメン・サソン(맹사성孟思誠1360-1438)という人物でした。
このメン・サソンは朝鮮王第4代セジョン(世宗)まで長きにわたって官僚として仕えていますが、
王のやり方を批判したり、間違っていることはちゃんと口にする人だったらしく50年の官僚生活の
うちで13年程は罷免、左遷、流刑という波乱に満ちたものになっています。
朝鮮王第3代太宗の時代には死罪の一歩手前まで行ったこともあるみたいですし。
メン・サソンは妻の祖父であるチェ・ヨンを人生の師として敬っていました。
チェ・ヨンのように清廉で実直でありたいという理想から死をも恐れずに間違っていることは
間違っていると王や重臣たちを批判したのでしょう。

科挙に主席で合格して文官として務めてから2年後にウ王がイ・ソンゲによって捕らえられ、
妻の祖父チェ・ヨンが処刑されてからはその余波で地方に左遷されたりしたそうです。
イ・ソンゲが朝鮮王朝を興した際には辞職しましたが、彼の才能を惜しんだ友人や彼の父親の
後押しもあって官職に戻りました。
(ちなみに父親も文官でしたが、高麗王朝に長く勤めたからか新しい王には仕えませんでした)
あのイ・ソンゲでさえ政敵チェ・ヨンの孫娘の夫だということをわかっていても重用したという
ことです。

セジョン王はメン・サソンが病床にある父親の看病をしたいから職を辞したいと申し出ても、
最後まで赦さず、その代わりに面倒を見ながら仕事ができるようにとバックアップしたそうです。
それほどセジョン王にとってメン・サソンは重要なブレーンだったということですね。

メン・サソンは馬ではなく、牛に乗って歩くのが好きだったそうです。
自分で楽器を作って楽しむほど音楽が好きで、身分の高い低いにかかわらず家に訪ねてきた人を
官服で門の外にまで出迎え、上座に座らせたとも書いてありました。

メン・サソンが住んでいた家はもともとはチェ・ヨンの家でしたが、孫娘と結婚したサソンに
譲られたそうです。
韓国の民家の中で最も古い家として観光名所になっていて、チェ・ヨンとメン・サソンの人柄が
偲ばれる質素な造りだそうです。
(わりとこじんまりした家ですよね)

孟氏杏檀(맹씨행단)
メン・サソンの家
今回は1388年をクローズアップします。

1388   チェ・ヨンとイ・ソンゲが手を組んでイ・イニムを流刑にする。
   2月、明から北部地域を返還するよう求められる。
3月、チェ・ヨンの庶女(寧妃 崔氏)が禑王に嫁いで妃となる。
   4月、チェ・ヨンは総司令官となって北部地域へと遠征を開始する。
   6/末、鴨緑江(アムノッカン)を挟んで対峙していた高麗軍が副司令官イ・ソンゲの
      命令で王命に背いて開京へと兵を回軍させる。(威化島回軍イファドヘグン)
   7月初、イ・ソンゲたちが開京(ケギョン)を占領し、チェ・ヨンは王を唆した罪で
      京畿道へ流刑される。
      禑王は廃位されて流刑に処され、息子の昌王(当時8才)が王位に就く。
   陰暦12月、チェ・ヨンはケギョンに召還され、後に殺される(享年73才)


1388年初め(恐らくその頃の出来事だと思います)。
ウ王の舅としてのさばり私欲を貪っていたイ・イニム。
チェ・ヨンはイ・ソンゲと手を組んでイ・イニムを追い落として流刑にしました。
これで勢力図は書き換わり、二大勢力はチェ・ヨンとはじめとする貴族たちとイ・ソンゲを
はじめとする新興勢力になりました。

ところで・・・時期は不明なのですが、王はチェ・ヨンの娘(妾が産んだ子供)を妃として
迎えたいと言い出します。
(チェ・ヨンとユ夫人の間に生まれた娘は恐らくこのときにはすでに嫁いでいたのでしょう。
 妃に欲しいというぐらいなので妃になった娘は10代か20代初めごろでしょうか)

この申し出にはチェ・ヨンとの結びつきを強くしたいというウ王の思惑があったのではないかと
いう説があります。
チェ・ヨンは「娘は美しくもないし、庶子(妾の子)だから妃にはふさわしくない」と断ります。
それでも妃に欲しいという王に、どうしてもというなら自分は出家するとまで言って突っぱねた
のですが、部下たちの説得もあってついに承諾しました。
既に何人も妃がいる王のもとへ自分の娘が嫁げばまた国の財政を圧迫することになると思った
のでしょうか。
それとも親として、何人も妃がいるウ王のところに嫁いでも幸せになれないのは目に見えている
ので断ったのでしょうか。

王はもともとチェ・ヨンの実直な人柄を嫌って彼の屋敷を訪れることはなかったそうですが、
妃を迎えることが決まってからはしばしば行幸されたようです。

2月。
明が北部地域(天の門がある地域などの一帯)を返還するよう求めてきました。

中国は元から明へと時代が変わりました。
国の情勢が落ち着くと今度は高麗に貢物を当然のように求め、多少無理をしてでもその要求に
こたえていた高麗ですが、チェ・ヨンが元の時代に奪い返した高麗の土地を
「元のものだった土地は明のものだから返せ」と要求され・・・ウ王は明と全面的に争うことを
決めます。

3月。
チェ・ヨンの庶娘(寧妃)が冊封されて王の妃になります。
寧妃はウ王と父親チェ・ヨンが北部地域へと遠征した際に途中ソギョン(西京:現在のピョンヤン)
まで見送りに出ています。
夫と父を見送る彼女は幸せに満ち溢れていたでしょうが、その幸せもあっという間に終わりを告げる
ことになります。

4月頃。
王はチェ・ヨンを総司令官、イ・ソンゲとチョ・ミンス(조민수曹敏修)を副司令官に任命して
北部への遠征を開始します。
(軍は左軍と右軍の2つで構成されていて、イ・ソンゲとチョ・ミンスが統率しました)
ウ王はチェ・ヨンたちと共にソギョンまで一緒に行くわけですが・・・

王は総司令官であるチェ・ヨンにケギョンに留まるようにと言います。
何万という兵士が遠征に出ているため、手薄になったケギョンを倭寇に襲撃されたらと心配したのか、
この機に乗じて狙われたらと案じたのか、妻の父となったチェ・ヨンを手元に残しておきたかった
ようです。
チェ・ヨンはこの時点で王から絶大な信頼を得ていたということでしょう。

5月24日。
結局総司令官チェ・ヨンは留まって、イ・ソンゲとチョ・ミンスが兵を率いて出発しました。

6月11日。
2軍は鴨緑江(アムノッカン)まで進軍しますが、ちょうど梅雨で川が増水していて渡るのも
困難でした。
何百という兵が川を渡る際に溺れ死んだりしながらも何とか川の中州にあるイファド(威化島)
まで辿りついたのですが、これ以上進軍をするのは無理だと判断したイ・ソンゲは王と総司令官の
チェ・ヨンに4つの撤退理由を書いて手紙を送ります。

・そもそも大国に小国が戦いを挑んでも勝算はない
・農繁期に戦いをしても国に利はない。
・明と戦っている間に南方が手薄になり、倭寇に侵略される。
・梅雨で兵が病気になりやすく、湿気で使い物にならない武器が出てくる。

しかし、王とチェ・ヨンは撤退を許しませんでした。
王はこの機会にイ・ソンゲたち新興勢力の力を弱めておきたいという思惑があったのではないか
という説があります。
遠征でイ・ソンゲの一派が戦死してくれるか、彼の傘下にある兵力が消耗してくれたらという
算段があったようだと。
なので全面的に明と争うのではなく、戦う姿勢があることを見せて交渉をしようとしていたのでは
ないかとも言われています。
チェ・ヨンにもこの思惑があったのかはわかりません。
イ・ソンゲが政敵とはいえ、彼の勢力を弱めるために兵士を犠牲にするかなぁと考えて・・・
きっとチェ・ヨンは純粋に国土を守るために遠征し、撤退することは高麗の土地とそこに暮らす
高麗の人々を捨てることになるから反対したのだと思います。

そして・・・

6月26日。
ついにイ・ソンゲは王命に背いて軍を撤退させ、ケギョンへと引き返し始めました。
この時点でもう一軍の副司令官だったチョ・ミンスもイ・ソンゲに賛同してしまいます。
それだけ兵士たちの士気は下がっていたのかもしれません。
イ・ソンゲは大国である明と戦えば国はもっと消耗してしまう、それなのに戦えと王が命令する
のはきっとチェ・ヨンが唆しているからだと主張しました。
王が悪いのではなく王を唆したチェ・ヨンが悪いと言われれば、兵士たちは別に国を裏切ること
にはならないと気持ちが軽くなったのではないでしょうか。
兵たちはイ・ソンゲを讃える歌を歌いながら進軍したと伝えられています。

王命に背いた時点で遠征軍は反乱軍になりました。
ソギョンで回軍の知らせを受けた王とチェ・ヨンは反撃するために軍勢を集めようとしましたが、
ほとんどの軍勢を遠征へと出していたためにわずか50人ほどの兵しか集められませんでした。

7月4日。
ケギョンに侵入したイ・ソンゲはチェ・ヨンを捕らえて流刑に処し、ウ王はカンファドへと追放
されてしまいます。
そしてまだ幼いウ王の息子が昌王として第33代高麗王になり、イ・ソンゲは摂政政治を行います。

陰暦12月。
チェ・ヨンはケギョンに召還され、処刑されました。(享年73歳)
彼は最後に「自身に私欲があったならば墓に草が生え、潔白であれば草が生えることはない」と
言い残して死を迎えました。
チェ・ヨンのお墓は本当に草が生えなかったそうです。

これがチェ・ヨンのお墓です。
ソウルの少し北に位置した京畿道のコヤン市というところにお墓はあります。
チェヨン将軍のお墓

草は1976年頃から生えたということです。
(確か、チェ・ヨンの子孫が草を植えたという記述があったと思うのですが・・・)
お墓は双墳で上は父親であるチェ・ウォンジク氏が、下にチェ・ヨンと奥様ユ夫人が一緒に眠って
いるそうです。
お墓は夫婦二人っきりじゃないのね~とちょっとだけガッカリ(笑)
でもまあ離れているので・・・二世帯住宅みたいなものでしょうか。

イ・ソンゲの命令でチェ・ヨンの遺体は道に捨てられましたが、彼の最期があまりにも堂々として
いたことに感動した人々は遺体のそばを通り過ぎるさいに敬意を表したということです。

後に、イ・ソンゲはチェ・ヨンを殺したのは本意ではなかったと言って「武慇」という諡号を与えて
いますが、私の個人的な考えとしては、民から誹謗中傷されたくないという回避策だったのでは?
と勘ぐってしまいました。

イ・ソンゲたちはチェ・ヨンになにか汚点となるものでもあればそこを突いて彼を非難したかった
でしょうが、彼は本当に実直な人だったようでいくつか逸話も残っています。

 ・一生を軍門に従事したが、知っている顔は3~4人にすぎなかったと評価するほど軍隊内の
  派閥争いとは距離が遠かった。

 ・贅沢と蓄財に否定的な立場だった。
  キム・ヨン(武人)という人物が処罰されてまもなく彼が生前に持っていた「猫兒眼精珠」
  という宝玉が朝廷に捧げられ、官人たちがこぞって見物に行くのを見たチェ・ヨン。
  「キム・ヨンの大きかった志をこんなもので汚しておいて、何がすごいと鑑賞なさるのか」
  と批判することもした。

 ・「どのようにすれば官人になることができるのか」と尋ねた人に「商工(商売?)を習えばよい」
  と答えたそうです。
  これは当時官職が売買される世相を皮肉って答えたことだったそうです。

 ・当時の高麗の権力者たちはお互いの邸宅に招いて盛大な宴会を開いて珍らしい食べ物で接待して
  贅を尽くしていた。
  ある日チェ・ヨンは宰相を家に招き、昼が過ぎても何の食べ物も出さないままで、日が暮れる
  ころにようやく黍(きび)を混ぜて炊いたご飯にいろいろなナムルだけを添えて持ってきた。
  食事を待ちくたびれてお腹がすいた宰相は文句も言わず残らず食べて、
  「チェ・ヨンの家で食べた食べ物が、今まで食べたどんな山海珍味よりも一番おいしかった」
  と褒めた。
  チェ・ヨンは笑って「これも兵士たちを働かせる一つの方法です」と答えたという。


イ・ソンゲが編纂を命じた「高麗史」においてもチェ・ヨンについては悪く書いたりしていません。
そんなことをする人物でないことは彼に助けられた民や彼の部下だった兵士たちがよく知っている
ことです。
彼を貶めるようなことを書けば正史である「高麗史」に嘘や歪曲した内容が描かれていることに
なり、それを編纂した朝鮮王朝自体が疑われることになるのですから。


ここからは私の妄想なんですが(笑)

彼のお墓には草が生えなかったということですが・・・普通生えますよね?
チェ・ヨンが遺言でそう言い残したのならと彼を慕う人々が夜中にこっそり草を引いていたのでは
ないかと思います。
もしくは彼を慕っていた人たち、或いは彼の子孫が夜中に草引きしてたとか。

ドラマ的な妄想だと・・・

『墓にて』
初老のテマンが彼の墓守をしているイメージが浮かびます。
(住まいもお墓から程近いところに住んでいるという設定です)
その傍らにはトギがいて、二人は夜中にせっせと草引きしているんですが・・・人の気配を感じて
警戒モードのテマン。
やってきたのはチャン・ビン。
彼は医術の見聞を広めるために何年も前に高麗を出ていましたが、風の便りでチェ・ヨンの死を
知って高麗に戻ってきたのです。
久しぶりの再会に顔がほころぶテマンとトギ。
友のお墓詣りを済ませたチャン・ビンは二人に紙を渡します。
その紙には除草剤の作り方が詳しく書いてありました。
チェ・ヨンの遺言を人づてに聞き、人の身体に毒にはならない薬を調合したチャン・ビン。
夏の盛りにはそれを撒くといい、(お墓の下で)眠っている人たちの害になるようなものではない、
でも少し苦いから奥方はしかめっつらになるかも・・・
そう言ってほほ笑むチャンビンとそれにつられて微笑む二人。
「うげぇ苦い」としかめっつらをするウンス、そんな彼女を微笑ましく見守るヨンが思い浮かんだ
三人でした~

『あの場所で』
チェ・ヨンより先にユ夫人は亡くなっています。
ということで妄想は先にあの世に行ったウンスがヨンを待っているという設定で。
(二人とも出会ったころの若いままっていう設定も忘れずに・・・)

天の門の近く、いつかヨンがウンスを待っていた大木のそばで。
ウンスは少し前にもうすぐヨンがここに来ることを知らされていました。
なので出迎えに来たのですが・・・ヨンみたいに座ってじっと待っていたりはしません(笑)
待ちきれなくて迎えに出たものの、いつ来るのかわからないから手持ち無沙汰。
手を後ろに組んで木の周りを何周かしてみたあと、今度はしゃがんで両手で頬杖をついてヨンを
待ちます。
立って周囲をキョロキョロと見渡すものの、それらしい人影も見当たらず。

そうするうちに雨がポツポツと降り始め、天を仰ぐウンス。
「天国にも雨は降るものなの?」
と不思議がる彼女ですが・・・目の端に青い服がチラリと浮かび、そちらを見やるウンス。
そこにいたのは優しく微笑むヨン。
ウンスは胸がいっぱいになって彼の傍まで歩いていきます。
で、ヨンが何か言おうとする前に彼の胸に飛び込み、首にしがみつくウンス。
ヨンは驚きもせず彼女を受け止め、ぎゅっと抱きしめます。
彼女の懐かしい香りが鼻をくすぐって、ヨンの胸もいっぱいに・・・
少しだけ抱擁を解いてお互いの顔を見つめる二人。
ヨンはウンスの頬に触れ・・・ウンスは自分に触れている彼の手の上に自分の手のひらを重ねて
黙って頷きます。
「イムジャ」
万感の想いを込めてヨンがそう呼ぶと、ウンスは感極まって涙がいっぱいの目で「うんうん」と
返事をするのが精一杯。
そんな彼女を今度は優しく抱きしめヨン、再会の喜びに満ち溢れる二人でした~


みなさんの妄想はさていかに?


次の記事で年表はひとまず完成!・・・となるはずです。

今回はチェ・ヨンを中心に・・・と思っていましたが、禑(ウ)王にクローズアップした
内容になっちゃいました(笑)

年表はこんな感じです。

1376 チェ・ヨン、出征を志願して倭寇を大きく打ち破り、その功で鉄原府院君になる。
   陰暦3月、パニャが騒ぎを起こす。
1379 ウ王、正妃を迎える(当時の権力者イ・イニムの娘)
1380 陰暦1月、恭愍王の母(大妃)が亡くなる。
   9月。禑王と正妃との間に息子が誕生(後の高麗33代目昌王)


1376年に出征したチェ・ヨンは当時60歳。
その年齢になっても中央で権力にまみれたりせず、民のために北へ南へと奔走していたのでは
ないでしょうか。
民にとっては魔(外敵)を打ち破るチェ・ヨンは神の化身に見えたと思います。

そういうこともあってか、民間信仰の巫俗(ふぞく)で迎える神様の一人として
「チェ・ヨン将軍」がいらっしゃいます。
寿命長寿、安過太平(안과태평)の神様だそうです。
(安過太平は「家内安全」とか「無病息災」っていう意味でしょうか)
韓国ドラマでは現代でも巫女さんの祈祷を受けたりするシーンとかたまに見かけますよね。
実在の人が神様として祀られることがある日本ではそう珍しくないのですが、韓国ではどうなん
でしょうね?

済州島(チェジュド)にもチェ・ヨン将軍の霊廟があります。
1374年に起きたモンゴル人の乱が済州島で起きたときにヨンが鎮圧しに済州島へとやってきます。
そのときに漁民に魚を網で獲る方法を伝授し、漁民の生活は豊かになったそうです。
その感謝の気持ちから霊廟を建てたとも言われていますし、度重なる倭寇からの侵略に苦しんで
いた民らが倭寇の討伐で何度も功績をあげているチェ・ヨン将軍にあやかろうと建てたという
説もあるそうです。

その後もチェ・ヨンは倭寇の討伐にずっと出ていたようです。
中央の政治の上で、彼の影響力は大きかったのではないでしょうか。
家柄は名門の貴族だし、実力はイ・ソンゲよりも若い頃からずっと戦場に出ていて武功もあり、
民衆からの信頼も厚いし・・・。

さて、今回は恭愍王の息子で第32代の高麗王である禑(ウ)王に注目したいと思います。
(こっちのほうがエピソード満載で面白かったのでついつい取り上げてしまいました)

その前に・・・
恭愍王が殺害された後、王を殺したホン・ニュンとチェ・マンセンを討ったのがイ・イニム
(李仁任이인임)という武人でした。
次の王をどうするかという話が持ち上がったときに大妃(恭愍王の母)一派は王族からの選出を
主張しましたが、イ・イニムが唯一の子供であるウ王を王にと推し、結局ウ王が王になったので
それを足掛かりに政治の権力を握ります。
このイ・イニムは一時はシンドンの門下もいたそうで・・・権力の臭いがしそうなところには
敏感に反応したのかもしれません。
権力を握ったイ・イニムは横暴や政治腐敗の限りを尽くし、内側から高麗王朝を蝕み始めます。

話はウ王に戻ります。
彼の母親はパニャという女性でしたが、元々はシンドンの侍女でした。
恭愍王はシンドンの息子だという憶測が広がることを怖れ、ウ王が生まれたことを隠しました。
シンドンが失脚して後に自分には息子がいると公表しましたが、宮の外で生まれた子ですし
ひた隠しにされてきたことで疑惑が持ち上がります。

1376年。
ウ王が即位した翌年に騒ぎが起こります。
パニャが「自分はウ王の生母だ」と大妃(恭愍王の母で、当時はウ王の母親代わりだった?)に
訴えた(もしくは訴えようとした)記録が残っています。
パニャは捕えられて後に殺されましたが、このことは後にイ・ソンゲたち新興武力勢力にとって
ウ王を排除する都合のいい言い訳になってしまうわけです。

後に朝鮮王朝を興したイ・ソンゲが編纂を命じた「高麗史」にはウ王は恭愍王の子ではなく
シンドンの子供だったと記載してあります。
なので名前も王家の「王<ワン>」という姓ではなく、シンドンの「辛<シン>」という姓で
記載され、「辛禑<シン・ウ>」となっています。
当然ながらウ王の子供で次に王となった「昌王」も同じく「辛昌」と記載されました。

周囲から出自を疑われて育つということは足元が不安定でどこにも居場所がないような気持ち
なのではないかと思います。
宮で暮らすようになってから3年後に父である恭愍王は殺されました。
養育は恐らく恭愍王の母だった大妃がしていたのだと思われます。
大妃はどうして彼を王に推さなかったのでしょうか・・・彼を王にと推さなかったのは出自が
不明だからなのか、それとももう自分の直系が王になるのは見たくなかったからでしょうか。
彼女はどんな目でウ王を見ていたのか・・・
その祖母もウ王が15歳の時に亡くなりました。

1379年イ・イニムは娘をウ王の正妃として嫁がせ、翌年には世継ぎとなる孫(のちの昌王)が
誕生します。

若い王はイ・イニムに唆されたのか、あるいはもとからそういう気質だったのか・・・
享楽的な生活にのめり込んでいきます。

正妃の女官に手をつけ、妻の実家を訪ねたときに奴婢だった娘に手をつけ、他の男と婚姻の
決まっていた娘を無理やり奪って自分のものにし(二人)、妓生<キーセン>を妃にし(二人)、
家臣の妾を無理やり奪うなど・・・この他に祖母の姪やチェ・ヨンの娘などあわせて12人の妃が
いました。

17歳で女官に手をつけたところから始まっているので7年ほどで12人。
若いとはいえ多すぎます。
妃として迎える限りは彼女たちが住まう宮などを用意する必要があり、国庫はそのせいで
ほとんど尽きてしまったようです。
1385年12月に冊封した妃は同時に3人。妃となった女性たちが、婚姻の決まっていた娘、家臣の妾、
奴婢と身分がバラバラだったので世間はびっくりしたようです。
チェ・ヨンの娘は1388年3月に冊封されて妃になりましたが、そのときは家臣の家にお出ましに
なったときに見初めた娘と二人一緒に妃になりました。
その一か月前の1388年2月には妓生二人を妃として冊封したウ王。
そりゃ国庫がいくらあっても足りないわけで、その足りない分を税金を上げて補てんしようと
したもののそれでも足りなかったとか。

1388年。
外敵(倭寇)の侵入による衰退のうえに政治が腐敗して国の財政はひっ迫している状況に
陥るなかで明からは新たな要求が来ます。


この続きは次の記事で。

あ、ちなみに次回はチェ・ヨン将軍の最期について書いています。
読むのが辛い方は見ないでくださいね~
今回は王妃を亡くしたあとの恭愍王を中心に書いていきます。

1368 ワンゴ死去。
   明が建国される。
1369 改革を推進していたシンドンは王に謀反を起こそうとしたという罪を被せられて
   スウォン(水原)へ流刑される。
1371 シンドン(辛旽)が処刑され、チェ・ヨンは復職する。
   恭愍王が子供(禑王)の存在を公表する。
1372 恭愍王、子弟衛(チャジェイ자제위)を設置する。
1374 7月 済州道(チェジュド)で乱が起き、チェ・ヨンが鎮圧する。
   9月 恭愍王が殺害され、禑王が11歳で高麗32代目の王に即位する。
   (トッタブラが高麗王になると宣言するものの、実現せず)

1368年。
元を押しのけて明国が興り、奇皇后は息子アユルシリダラとともに北へ逃れて北元という
王朝を興したようです。
以前彼女のことを調べたときには生没年が不明でしたが、今回調べてみたところウィキの
情報が更新されていました。ドラマの影響ですよね、きっと。
彼女が生まれたのは1315年だそうです。
1368年には捕虜として(明国に?)捕まり、1369年には亡くなったようです。
(ちなみにキ・チョルは次男ですが、長男が早世したので事実上長男だったと情報が
 更新されていました)

話を年表に戻します。
1369年にシンドンが反勢力の企みによって失脚して流刑になり、1371年に彼が処刑されると
すぐに恭愍王はウ王の存在を公にして宮へ入らせます。
このとき息子ウ王は初めて父と謁見し、ウ(우禑)という名をもらいました。
(名前をもらうまではモ・ニノという名前で過ごしていたようです)

王はウ王の出自が疑われることを憂慮していました。
そのため1374年には、既に亡くなっている側室がウ王の生母だったのだと言ってその
側室の位を上げていますが・・・余計に疑惑を大きくしただけでは?と思ってしまいます。
ウ王のお話は次回に・・・

王には5人の側室がいました。
王妃の生前に側室になった恵妃(ヘビ)以外は王妃が亡くなってから跡継ぎを設けるために
次々と入内したようです。
1367年に益妃(イッピ)と定妃(チョンビ)、1371年に愼妃(シンビ)が入内していますが、
ウ王の生母とされたあと一人の側室韓氏については生没年が不明のため、わかりません。
でも誰一人として王との間に跡継ぎを設けることは出来ませんでした。

王は王妃が亡くなったあと、酒と色に溺れたようです。
色に溺れたなら世継ぎも出来そうなものをとお思いでしょうが、男色に溺れちゃったのです。

チュ・ジンモ氏とチョ・インソン氏の男同士のベッドシーンで話題になった
「霜花店(サンファジョム)」という映画をご存じでしょうか?
あの映画でチュ・ジンモ氏が演じた王が恭愍王なのです。
(個人的にはあのベッドシーンは格闘技にしか見えず、ムードもへったくれもなかったと
 思っています。でも内容は好きなんですよね、あの王の不器用さがよかったです)

1372年に王は子弟衛という官庁を設置しました。
人材育成をめざして王権と国権を強化する目的で設置されましたが、どうやら美少年たちを
集めるのが主な目的だったようです。
その中でもホン・ニュン(洪倫홍륜)とチェ・マンセン(崔萬生최만생) は王に気にいられて
いたようで・・・
同年の10月。
王は自分の側室たちにホン・ニュンらと関係を結ぶように強要したという記録が残っています。
(関係を結んで男の子が生まれたらその子を実子にする思惑があったようです。
 ちなみに子弟衛の青年の中には妃と関係を持つことを拒んだ者もいて、そういう者たちは
 庶民に降格されていたようです)
恵妃、定妃、愼妃はこれを最後まで拒んだそうですが、益妃は断りきれずにホン・ニュンらと
関係を持ちました。以後は王命を口実にホン・ニュンらが関係を迫り、益妃も断ることが
出来ずに関係を持っていたということですが、これが次の事件の引き金となります。

1374年。
益妃はとうとうホン・ニュンの子供を妊娠します。
チェ・マンセンがそのことを王に報告に行くと王は非常に喜びながらもその子供の実の父親
であるホン・ニュンを殺す計画を立てます。
子供の出生の秘密を知る者は残らず殺される、自分も消されるかもしれないと不安になった
チェ・マンセンがそのことをホン・ニュンに話してしまいます。
陰暦の9/22。
消されるのを怖れたチェ・マンセンとホン・ニュンらは逆に恭愍王を殺害しました。
享年44歳、王妃の死から9年後の出来事でした。

益妃が後に産んだ子供は娘でしたが、1376年陰暦12月に大臣たちから意見が上がり、ウ王の
命令で殺害されたそうです。
殺害を命じたウ王はまだ13歳、殺された娘はまだ2歳ぐらいだったのではないでしょうか。

年表を見て、ついてないなぁと感じたのがトックン君。
彼は1364年に奇皇后たちの後ろ盾を受けて攻め入りますが、もうあと5年ほど待っていたら
王の座に就けたかもしれないなぁと思いました。
王妃を失くしてやる気のない王、生まれた子供は王の子なのに周囲は疑いの目で見てるし、
それなら正当な血筋のトックン君を・・・という声が上がってもよかったのに。
タイミング悪かったなぁとちょっとだけ同情したりして。
きっと時代が彼を求めなかったということでしょうね。

恭愍王は王妃が亡くなってからはダメダメな人ですが、ドラマでもあったように元から強制
されていた服装や髪形を廃止したことは素晴らしい功績だと思います。
恭愍王が重用したシンドンも権力者たちが奪った土地を元の持ち主に戻してやったり、奴婢
の身分に落ちた人々を救ったり、成均館を再び設置したりと民衆のためにいろいろと善政を
行いました。
民のために善政を行おうとすると足を引っ張るのは貴族や新興の勢力者たち。
恭愍王は外敵に常に悩まされましたが、一方で内側の敵もまた厄介だったんだろうと思います。

次の記事ではウ王(恭愍王の息子)とチェ・ヨンの後年について書くつもりです。
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